「近思録」派の政策
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市田盛常追放後、鹿児島藩政の中心は樺山久言、秩父季保となった。彼ら「近思録党」が考えた主な政策は以下の通りである。 参勤交代の10年保留 殖産産業にならない新規事業の停止 琉球を通じた貿易の拡大 本来下級武士の役職である喜界島代官を一所持格で勘定奉行の島津相馬(お由羅騒動で処罰された島津壱岐の父)や寄合の伊集院蔵主への下命。 実際、琉球を介した対清貿易はそれまでも隠れた鹿児島藩の重要な収入源であったが、その大々的な拡大は江戸幕府を無視したも同然であり、茂姫を通じて幕府に威光を拡大していた重豪と衝突するものであった。更に、新規事業の停止により、これまで重豪が力を入れてきた蘭学関係の施設の大半や鷹狩りの施設が廃止となるなど重豪の改革に対する反動改革という側面もあったために、この改革は重豪の逆鱗に触れることとなる。 また、「近思録党」は近思録一派の者しか優遇しなかったこともあり、急速に国元の支持も失っていったとされる。例えば造士館の教授であった山本正誼はこのときに近思録党により隠居に追い込まれ、造士館教授に黒田才之丞が就任することになる。後に山本は一部始終を「文化朋党実録」という回想録として残したが、これらは現在数少ない近思録崩れの貴重な同時代史料となっている。
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