初土俵-脱走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 18:31 UTC 版)
1891年初土俵を踏み、1892年6月場所において「御西山」の名で序ノ口につく。四股名は徳川光圀の隠居地だった西山に因んで名付けられた。1894年1月、出羽ノ海の現役時代の四股名を継ぎ「常陸山」に改名。1895年6月場所で幕下に進むが初めて負け越したほか、出羽ノ海の姪と交際したものの破談となったことで部屋での立場が狭くなっていき、当時の常陸山の奔放な気質も相まって、神戸での巡業中に立ち寄った居酒屋で高砂部屋の三段目に所属していた鬼ヶ島から誘われて脱走した。 名古屋相撲から1896年に大坂相撲・廣角組に加入したが、廣角組が帰参した時には番付外で出場し、のちに広島相撲へ加入して脱走の原因の1つだった借金を豪商に精算してもらい、1897年に東京相撲へ帰参した。出羽ノ海は常陸山の帰参に激怒するどころか涙を流して喜び、高砂への取り成しを引き受けて帰参が許され、通常は厳罰として番付が降下するところを幕下格・番付外付け出しに留まらせるなど、破格の待遇を得た。
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