粗暴の力士、右腕切断の危機
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 07:59 UTC 版)
「前田山英五郎」の記事における「粗暴の力士、右腕切断の危機」の解説
1914年5月4日に愛媛県西宇和郡喜須来村で生まれる。喜須木尋常高等小学校を卒業後、1928年に高砂一行が高知市へ巡業に来た際、体格の良い金松少年がいるのを見つけた高砂が自ら勧誘した。当時の金松少年は相撲に対して興味を示さなかったが徐々に気持ちが傾き、大工だった兄を頼って上京してその日の夜に高砂部屋へ入門、1929年1月場所で初土俵を踏んだ。金松は入門に関して自惚れのようなものがあり、自分より体の小さい力士がおり、それには勝てるだろうなどと思っていた。入門当時の四股名は、地元にちなんだ「喜木山」で、のちに佐田岬と改名する。しかし、入門当初から粗暴な性格だったことが災いし、関取に昇進した際には誰一人として化粧廻しを贈る者がいなかった。後年の文献によると、若手時代は酒に酔って騒動を起こしては脱走を繰り返したといい、その粗暴さから高砂が三度も破門を言い渡したとされており、その度に小学校の恩師を始めとする周囲の人物が帰参に奔走したという。 1934年のある日、鯱ノ里一郎との稽古中に筋肉炎から右腕を負傷する。その傷口から細菌の感染によって悪性の骨髄炎に罹ったため、右腕切断を検討する程の重症となった。前田和三郎(慶應義塾大学)の数度にわたる懸命の手術で奇跡的に回復すると、これに恩義を感じて四股名を「前田山」へ改めた。手術の後遺症も無いまま、1937年1月場所で新入幕を果たすと、1938年1月場所では小結で11勝2敗の好成績を挙げた。当時の大関は鏡岩善四郎ただ一人で、その鏡岩もすでに36歳でこの場所が5勝8敗と不調だった事情も手伝って、関脇を飛び越えて大関に昇進した。
※この「粗暴の力士、右腕切断の危機」の解説は、「前田山英五郎」の解説の一部です。
「粗暴の力士、右腕切断の危機」を含む「前田山英五郎」の記事については、「前田山英五郎」の概要を参照ください。
- 粗暴の力士、右腕切断の危機のページへのリンク