若手~中堅時代
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もともと相撲や柔道の経験はほとんどなく、中学時代はバスケットボールをしていた。1992年2月に旭鷲山や旭天山らと共に来日して大島部屋に入門し、大相撲史上初のモンゴル出身力士の1人として同年3月場所において初土俵を踏む。四股名『旭天鵬』のうち『鵬』の字は、横綱の大鵬にちなむ。 来日して半年後に、稽古の厳しさや日本の食文化などに馴染めず、共に来日した5人と部屋を脱走してモンゴル大使館に駆け込むが、モンゴルの実家まで来た師匠・2代大島(元大関・旭國)に「3年間は相撲を取るという約束がある」「今に相撲はモンゴルの時代になる」と説得されて部屋へ戻った。とはいえ脱走から戻ってきた力士への部屋の衆からの目は厳しく、実際脱走直後の1993年1月場所はその雰囲気に耐えられなかったため、大使館から場所入りするという特別待遇を認めてもらうことでやり過ごした。 来日後の3か月間は通訳が付いたものの、部屋のルールでモンゴル語を一言しゃべるごとに罰金3000円、カラオケで覚える、などの工夫によりほとんど辞書を使わずに流暢な日本語を修得した。後にはその経験を買われて、2000年5月30日に「学習ストラテジー概論:効果的な言語習得のために」というテーマで、早稲田大学日本語研究教育センター教授の宮崎里司と対話形式で授業を行ったことがある。その内容は『外国人力士はなぜ日本語がうまいのか』(日本語学研究所、2001年、ISBN 4625683181)という宮崎里司の著書でも紹介されている。 1994年3月場所に幕下へ昇進し、1996年1月場所には西幕下9枚目の位置で7戦全勝という成績を挙げて優勝決定戦まで進出した。優勝決定戦ではこの場所において幕下付出で初土俵を踏んだ熊谷に敗れたものの、「幕下15枚目以内で7戦全勝すれば無条件に十両昇進する」という内規により、翌3月場所において新十両へ昇進した。その後、途中で幕下へ陥落することもあったものの、約2年間にわたって十両に在位し、1998年1月場所において新入幕を果たした。 その後、十両へ2回陥落したものの、1999年5月場所に3回目の入幕を果たしてからは幕内に定着し、2000年1月場所では11勝4敗と幕内では自身初となる二桁勝利を挙げて初の敢闘賞を受賞した。2002年1月場所では新三役となる東小結へ昇進した。2002年9月場所では横綱・貴乃花を破って初の金星を挙げた。2003年3月場所には横綱・朝青龍を掛け投げで破り2個目の金星を挙げ、東前頭筆頭の位置で9勝6敗と勝ち越して2回目の敢闘賞を受賞した。西小結へ昇進した翌5月場所でも10勝5敗と三役としては自身初となる勝ち越しを決めて3回目の敢闘賞を受賞した。自己最高位となる西関脇へと昇進した翌7月場所では6勝9敗と負け越したものの、翌9月場所では東前頭2枚目の位置で10勝5敗の好成績を挙げて4回目の敢闘賞を受賞した。
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