棋歴・棋風・人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/03 04:56 UTC 版)
居飛車党で玉をあまり固く囲わず、攻め合いをめざす戦い方を好む。 四段昇段当時の名前は「正之」で、1978年に「魁秀」を名乗る。本人はこのことについて、「囲碁・将棋チャンネル」の「将棋まるごと90分」に出演した際、姓名判断が好きだった師匠(本間爽悦)が改名するにあたり、一緒に改名しようと酒の席で説得され、半ば強引に改名させられたと明かしている。「将棋世界」2015年8月号に載った田丸昇の記事によると「魁」は秋田魁新報から一字を取ったという。 非常に珍しい、タイトル挑戦0回で通算600勝(将棋栄誉賞)を達成し、かつA級に在位したことの無い九段棋士である(全棋士中この条件を満たすのは田中のみ)。 四段になった弟子に佐藤康光(佐藤は田中の出身地の隣接市である京都府八幡市の出身)、阿部隆、福崎文吾、長沼洋、小林裕士らがいるが、田中門下で入会した奨励会員は小林(1990年度入会)を最後に確認できていない。 温厚で気さくな性格。「NHK将棋講座」2013年3月の記事によると、田中が奨励会員時代に師匠の本間に厳しく叱責されることが多く、それが苦痛だったことから、弟子には同じ苦痛を与えるのは気が引けるとして、弟子(奨励会員)を叱責することは滅多になかったという。 中堅時代は棋界でも最難関と言われた十段リーグの予選(通過枠は僅か2名)を勝ち抜き参戦する活躍を見せた。(1980年度、リーグの結果は勝浦修及び米長邦雄に1勝ずつ挙げたのみで陥落。) 王位戦でも活躍し、第12期(1970~71年度)・第14期・第18期と予選を勝ち抜きリーグ入り。白組で参加した第14期では全勝の中原誠に敗れたのみで3勝1敗の成績を挙げ、残留に成功した。 40代の頃、健康上の理由に伴う不戦敗が増え、1988年から1997年に亘りのべ11回の不戦敗を記録した。 還暦を迎えて以降も、トーナメントプロとしての情熱は健在であり、伸び盛りの若手を相手に健闘した。第69期(2010年)C級1組順位戦8回戦では、昇級争いのトップを独走していた広瀬章人王位を力戦の末に撃破し、順位戦における唯一の黒星を与えた。 上述の不戦敗を記録して以降、健康面に留意すべくか、対局後の感想戦は行わない、もしくは口頭のみの感想戦を数分程度で済ませてしまうことが多かった。 趣味は庭いじり。
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