内部構造と遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/08 17:29 UTC 版)
「高塚山古墳 (藤井寺市)」の記事における「内部構造と遺物」の解説
内部主体構造は、墳丘中央において、東西方向に主軸をおいた長さ7.5mの粘土槨施設であった。槨内に木棺は残存していなかったが、およそ6.5mばかりの割竹形木棺を納めたものであることが知られた。主体部中央は、盗掘を受けていたが、棺の内外から碧玉製管玉1、ガラス製小玉8、鉄刀・鉄剣14口、鉄鏃約400、鉾11、鍬19、鉄斧28、鑿1、銛4、盾3が出土した。粘土槨の形状から、遺物の配置から、棺の東側に東枕で遺骸が伸展して埋葬されていたと考えられる。盾は粘土槨上と槨外から出土したが、漆膜面の残存状態が比較的よく、全形が確認された一面は、粘土槨外のやや西寄りの位置で検出された。通例の盾が槨上もしくは槨の外斜面に置かれているのに対し、この盾はかなり離れた位置に副葬されていた。盾の全長は1.5m、幅50cm、黒色と赤色による彩色が施され、前面を鋸歯文と綾杉文で飾っていた。盾の面を下にしていたことから裏向けの状態で置かれていたことが確認されている。
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内部構造と遺物
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発掘調査により、墳丘中央に位置する埋葬施設のほかに、それを挟んで南北に副葬品を置いた施設がそれぞれ存在するのが発見された。
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内部構造と遺物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/29 05:12 UTC 版)
長原古墳群では後世の削平が著しいため主体部(遺体が収められている内部構造)が残っているケースは少なく、その構造が明らかになっているのは18 - 19基である。それらは木棺直葬 埴輪棺(大型の円筒埴輪を棺に転用したものやあるいは遺体を収めるために作られた大型の埴輪)が主で、粘土槨も1例知られる。竪穴式石室や石棺の存在は現在のところ知られていないが、最後の時期に属する七ノ坪古墳(130号墳)からは横穴式石室の基底部が検出されている。副葬品検出例は同じ理由で少ないが、鉄剣、鉄斧、鉄鎌などの鉄製品、須恵器、土師器、管玉などが出ており、上記、七ノ坪古墳の石室底部から馬具類一式がガラス玉、鉄製武器などともに出土している。 また、これらの古墳の墳丘の残存部や周溝から埴輪が多数出土しており、円筒埴輪、壺形埴輪の他に、人物、馬、盾、甲冑、蓋(きぬがさ)などの形象埴輪、囲形、舟形、家形の埴輪が出土している。 なかでも高廻り1号墳、2号墳(長原古墳群の支群の古墳群)から出土した船形、短甲形、冑形などの埴輪30点は国の重要文化財に指定されている。 1号墳の船形埴輪は宮崎県 西都原古墳群などで出土しているものと同じく、船首、船尾が反り上がったゴンドラ形をしていた。2号墳からは別のタイプの船の埴輪が出土しており、船首、船尾に波除板を付けるもので、隣接する八尾市久宝寺遺跡より出土した木造船(準構造船)と同じ構造であった。 両古墳が検出された場所は現在、児童公園とされ、なみはや公園と呼ばれている。これは大阪市が市制100周年事業の1つとして2号墳の船形埴輪をモデルに復原船が製作され、公募によってこの船が「なみはや」と命名され、1989年(平成元年)に韓国釜山まで実験航海を行なったことに由来する(大阪天保山から出航し、約700キロの航海をもっぱら手漕ぎで、35日かかったという)。両古墳出土の埴輪の実物は大阪歴史博物館に展示されており、復原船「なみはや」の方は、なにわの海の時空館に展示されている。また、同公園には長原高廻り古墳群の顕彰碑が同市によって建てられている。古墳時代、海と繋がる河内湖は奥深く内陸に入り込んでおり、長原の地も瀬戸内海や外洋と直接、繋がっていたようである。 古代船「なみはや」なにわの海の時空館展示。
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