中山道工事の中断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:39 UTC 版)
「中山道幹線」も参照 京都と東京を結ぶ線路の道筋は中山道か東海道か、当初から選択を保留したまま、両所の端から敷設作業を進める方針で着工していた。きっかけは明治3年に小野友五郎・佐藤政養の2人が東海道を測量調査し、報告書に「陸・海どちらからでも運行可能な東海道より、険峻で村々の交通が不便な中山道に鉄道を通して流通を発達させた方が経済発展に繋がる」と提言[要出典]、#モレルの後任として来日していたリチャード・ボイルも明治7年から翌8年(1875年)の中山道調査および明治9年の報告書で同様の主張をしたため、政府も態度を決めかねていたのである。この頃士族反乱が頻発、財政難であったことも躊躇の理由に入っていた。 勝は中山道に沿った延伸を目指し明治14年(1881年)6月に政府に企画書を提出、長浜から東へ進み関ヶ原までの敷設を主張したが却下されたため、明治15年2月に工部卿佐々木高行に宛てて建白書を提出、前年に発足した私鉄の日本鉄道会社が東京 - 青森駅間の敷設を企画している点に触れると、鉄道推進に繋がる点は歓迎できるが途方も無い計画であると批判、中山道を通り途中の高崎に至るルートの重要性を指摘し、長浜 - 関ヶ原間ばかりか東京 - 高崎間の東西両方の敷設工事を自分に任せるように、また合わせて敦賀方面の工事に携わった従業員の失業回避の必要性も取り上げた。佐々木の認可は3月に下り、6月から翌16年(1883年)5月1日にかけて長浜 - 関ヶ原駅間を開通させた。一方、東京から高崎までの計画は停滞、明治16年5月に工部省代理山縣有朋に宛てて関ヶ原から東側の大垣を経て加納までの延長を希望したが、実現の見通しは立たなかった。 同年8月、政府から路線の内定を求められると#ボイルの報告書を元に中山道ルートが最適と具申、高崎 - 大垣間の両端から漸次、測量・着工すべきと方針を固めた[要出典]ところ、9月に政府のルート決定が下りて国債も募集された。すでに同年7月から工部大輔兼工部技監に就任した勝は東京へ戻り、東京と中部地方を行き来して努める。明治15年6月5日から明治17年8月20日まで日本鉄道会社に代わり上野駅 - 高崎駅間の工事を進め、明治18年(1885年)3月1日に赤羽駅から上野、南は品川駅まで延長、10月15日に高崎から西の横川駅まで通じさせ、中部地方では大垣から四日市(四日市港)までの敷設にも取り組んでいる[要出典]。 中山道路線の着工は明治17年5月、四日市から大垣まで資材運搬路線を敷く所から始まり、その目的とは神戸港から船で運んだ資材を四日市で水揚げして名古屋経由で現場へ届けることにあった(同月に関ヶ原 - 大垣駅が開通)。ところが四日市から先の路線は揖斐川・長良川・木曽川など川に橋を架ける箇所が多く難工事が予想されて断念、計画は修正して翌明治18年3月、四日市の東に位置する半田港を選び直した上で大垣 - 名古屋駅 - 半田駅路線に変え工事を推し進めると、明治19年(1886年)3月に半田線(後の武豊線)を開通させた。だが、この頃から中山道路線に疑問を感じ始めた勝は、明治17年5月から2ヶ月かけて高崎から中山道を辿り(たどり)神戸まで往復して自ら実地を検分すると、中山道の険しい道のりで工事の進み辛さを実感、明治18年2月には部下の原口要に密かに東海道調査を命じて[要出典]変更の可能性を探らせた。 やがて懸念は現実の物になり、横川から先は標高552mにおよぶ碓氷峠の急勾配が建設上の難問になり、機関車が登りにくいのに峠越えにこだわって多くのトンネルや橋を築こうと長期間をかけるか、あるいは長距離を迂回して線路を通すかの選択に悩まされた勝は、一旦、碓氷峠を後回しすると名古屋方面側の軽井沢駅から上田駅を繋ぎ、直江津線として上田から北の直江津港(直江津駅)をも結ぶ構想を先行させた。いざ5月からその測量に取り組んだものの、難工事で一向に進展しない状況はこちらも変わらず、原口が持ち帰った東海道の調査報告を読んで路線の変更を決断した。明治19年3月に第1次伊藤内閣に提出した変更の書類が却下されると、部下の南清らを中山道に派遣して工事困難の理由をまとめさせ、伊東首相と山縣に根回しをして了解を取り付け、7月に内閣へ再び提出し変更許可が下りたところで東海道路線敷設に取り掛かった。この時に放棄された直江津 - 上田 - 軽井沢間の全通は明治21年(1888年)12月を待つことになる。
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