中山銀座と2回目のルート変更
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 13:05 UTC 版)
「中山トンネル (上越新幹線)」の記事における「中山銀座と2回目のルート変更」の解説
前年の四方木工区出水事故の復旧工事と同様に、トンネル上部の地上からボーリングを行って閉塞作業を行うことになった。さらにこの作業期間を利用して、今後の本坑掘削工事に障害となる八木沢層の区間に対して地上から薬液注入作業を行っておくことになった。この注入作業を行うに際しては、その範囲をできるだけ少なくすることが求められた。このため、2回目のルート変更が決断されることになった。ルート変更は八木沢層を通過する区間をできるだけ少なくすることが目的であった。小野上南工区と四方木工区の境界付近にある100 mほどの八木沢層の区間はどうやっても避けることができないが、高山工区の八木沢層区間は回避して閃緑岩の層を通すことは可能であった。そのために80 km/h程度の速度制限を甘受して半径500 mの曲線を挿入することさえ議論された。残りの工程を詳細に検討した結果、高山工区の八木沢層は回避しなくても小野上南工区と四方木工区の境界付近の八木沢層よりは先に掘り抜ける見込みとなったことから、制限速度160 km/hで半径1,500 mの曲線を挿入することになった。1981年(昭和56年)1月7日に公団総裁に上申され、1月30日に承認されている。 このルート変更により、下り列車に対して半径6,000 mの曲線で右に曲がり、さらに半径2,000 mの曲線で右に曲がって、半径1,500 mの曲線で左へ、続いて右へ曲がって元の半径6,000 mの右曲線につなぐ複雑な迂回経路が設定された。2回のルート変更の結果、2か所の重キロ程が発生した。108 km120 m60地点でキロ程が20 m60巻き戻されて108 km100 m00となり、また108 km476 m67地点でやはり6 m32巻き戻されて108 km470 m35となって、都合26 m92のキロ程が重複している。この変更により、八木沢層を通過する区間は最終的に約140 mにまで短縮された。 こうして変更されたルート上の八木沢層区間に対して、地上からの注入作業が始められることになった。注入区間は106 km422 m - 106 km550 mの144 m、106 km638 m - 106 km692 mの54 m、108 km031 m - 108 km229 mの198 mの合計396 mとされた。そのために注入箇所の直上に敷地が必要とされた。前の2区間は直上が県道と国有林であったため、借地しあるいは道路を付け替えることで対処することができた。しかし最後の1区間は直上がゴルフ場(ノーザンカントリークラブ上毛ゴルフ場)であった。しかも直上にあたるのはスタートホールのティーグラウンドで、仮に営業休止となれば補償額が大きくなることは免れなかった。しかしゴルフ場側の理解を得て、ティーグラウンドを通常より前に出してボーリング作業を行うことができた。 こうして注入作業が開始された。日本全国からボーリングマシンが100台以上集められ、ボーリング技術者の90パーセント以上が中山に集結した。作業は昼夜兼行で行われ、多数のやぐら群が煌々と照明で照らし出される幻想的な夜景は、誰からともなく「中山銀座」と称されるようになった。平均360 mの深さのボーリングを643本行い、16万立方メートルに及ぶ薬液を注入した。このための費用は257億円にも上ったとされる。坑外からの注入は、長いボーリングが必要であることや効果を確認しづらいこと、薬液の注入の無駄があることなど、費用面では明らかに不経済な方法であったが、上越新幹線全体の開業時期が中山トンネルの完成にかかっている以上やむを得ないものであった。この時期新潟県内の平野部ではすでに線路が完成し、1980年(昭和55年)11月5日からは試運転が始まっていたのである。注入作業は工区が復旧した後の1981年(昭和56年)6月まで継続された。 揚水量と水位の変化などから閉塞が完了したことが見込まれると、ポンプを増設して揚水量が増やされ、1980年(昭和55年)8月20日に高山工区、8月27日に四方木工区の排水がそれぞれ完了した。11月上旬に両工区の復旧作業が完了した。
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