中山道中の人々
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 18:00 UTC 版)
スワ 馬籠宿で生まれ育った。前年の暮の大火事で両親を亡くし、スワは庄屋に、6つになる弟は中津川の遠縁に引き取られた。 檜山 角兵衛(ひやま かくべえ) 福島関所番頭。与川崩れを迂回せずに渡ったという一路の言を信じなかったが、現場を見て変心し、行列が谷に捨てざるを得なかった宝物類を拾い集め、宿場まで届けた。 大賀 伝八郎(おおが でんぱちろう) 下諏訪宿の宿場役人。幕閣に参与していた主君、諏訪因幡守の小姓として江戸詰めだったが、5年前、20歳の時に、父の急逝に伴い、宿場役人の家督を継いだ。「鬼の栖」の異名を取る和田峠を急ごうとする一路を諌める。 内藤志摩守 正誠(ないとう しまのかみ まさあきら) 信州佐久郡岩村田藩一万五千石の当主。17歳。奏者番。10歳の時に父が自害したため、若くして祖父の跡を継いだ。内藤家と蒔坂家は江戸の本所屋敷が隣同士で交誼が深く、病に臥せていた先代が左京大夫に正誠の行く末を託し、自身も幼くして家督を継いだ左京大夫は兄のように正誠を導いた。血筋及び先代である祖父の功績により、父祖代々の念願であった築城を許され、陣屋大名から城主大名になったことで、ふてぶてしい 態度が一層悪化した。家督を継ぐ前の名は「鉍一郎(ひいちろう)」。 浅井 条右衛門(あさい じょうえもん) 内藤家家臣。軽々しい言動が多い正誠を諌めるが、聞き入れられない。 乙姫(おとひめ) 加賀藩前田慶寧の才色兼備の妹。実母ではないが、父の正室は11代将軍・家斉の娘。国元で育ったが、輿入れに相応しい年齢(16歳)になり江戸下屋敷へ移り住むことになる。行列は三百人余に達し、速度も遅く、時には休憩や見物を兼ねて渋滞した後ろの旅人らを先に通らせる。 蒔坂家が早駆けで行列を追い抜いていった際、一路に叶わぬ恋をし、身に付けていた簪を与える。 鶴橋(つるはし) 乙姫のお付女中。女としての幸せ(=恋が成就すること)を体験できないまま老境を迎え、乙姫の叶わぬ恋をせめてもの思いで応援する。 板倉主計頭 勝殷(いたくら かずえのかみ かつまさ) 上野国安中城主。42歳。武芸の基礎は駆け足であるとの信条の持ち主で、自分や家来はもちろん、領民にも駆け足を奨励する。先代の頃から始まった、城下から碓氷峠頂までの七里を走って往復する「安中の遠足(とおあし)」は名高い。口癖は「よおっし!」。 根本 国蔵(ねもと くにぞう) / 石塚 与八郎(いしづか よはちろう) / 海保 数馬(かいほ かずま) 安中藩家来。走術の免許皆伝、直近の遠足で好成績を残した三人の武士。「風陣の秘走」で、左京大夫の発熱による江戸到着遅延の知らせを、松井田から江戸表までの三十二里を三刻半で届けるよう命じられる。 ひぐらしの浅(あさ)、又はひぐらし浅次郎(あさじろう) その日暮しの博打打ち。色男。元は田名部生まれの武士で、郡奉行を務めていた父があらぬ罪を被せられ、一家もろとも放逐された。遠縁を頼り、隣国彦根で田畑を買ったが、父母は流行病で死去。 秋の終わ頃に、浅次郎の恩人である貸元の親分が、彦根を訪れた七左衛門から将監一派の企みと行列の助っ人になって欲しい旨を依頼され、将監は浅次郎の親の仇も同然だからと任される。父から「田名部と関らぬよう」言い残されているため、煩悶する。 黒岩 一郎太(くろいわ いちろうた) 牧野家の道中供頭。19歳。急な卒中で昏倒した父親に代わり、供頭の大役を初めて任される。父から役目の引き継ぎもしていなければ、道中にお供したこともなく、父は卒中で口が利けない、頼みの綱の添役は、前任者が尊皇攘夷にかぶれて出奔した為の代役であるという、一路と似た境遇の持ち主。 牧野遠江守康哉(まきの とおとうみのかみ やすとし) 信州小諸藩1万5千石藩主。井伊直弼の肝煎りで若年寄に抜擢されたが、桜田門外の変後に罷免された。3年間の激務がたたって体を壊し、領分で死にたいという意思を公儀に認められ、小諸へ戻る途中、深谷宿本陣で田名部と差し合い(宿泊藩が重複すること)になる。 井上河内守(いのうえ かわちのかみ) 寺社奉行。氷川神社参拝の折に左京大夫と行き合う。 海老沢 吉三郎(きちざぶろう) 大宮宿代官支配の公事方手付(領民の揉め事を裁量し、領内の治安に携わる助役)。代官の留守中に氷川神社の参道で蒔坂家家来二名が討死する事態に見舞われる。
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