レンネル島沖海戦
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「シカゴ (CA-29)」の記事における「レンネル島沖海戦」の解説
「レンネル島沖海戦」および「ガダルカナル島撤収作戦」も参照 1943年(昭和18年)1月初め、修理が終わったシカゴはサンフランシスコを出航した。南太平洋方面海軍司令官ハルゼー中将の手元には、正規空母2隻(サラトガ、エンタープライズ)、新鋭戦艦3隻、護衛空母2隻、巡洋艦12隻、駆逐艦25隻という兵力があった。 1月27日、シカゴはロバート・C・ギッフェン少将率いる第18任務部隊に加わり、ガダルカナル行き船団の間接護衛に従事するためヌメアを出撃した。ギッフェン少将は、護衛空母2隻(スワニー、シェナンゴ)、重巡3隻(ウィチタ、シカゴ、ルイスビル)、大型軽巡3隻(モンピリア、クリーブランド、コロンビア)、駆逐艦8隻を率いることになった。予定では、サボ島沖に待機して日本側の反撃に備え、遅れて出撃するエンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) 基幹の第16任務部隊が上空を援護することとなっていた。第二艦隊司令長官近藤信竹中将が率いる牽制部隊(旗艦「愛宕」)がガダルカナル島北方に進出してきたので、ハルゼー提督の注意をひいていたのである。また日本軍の基地航空隊もガダルカナル島撤収作戦を支援するため、綿密な索敵をおこなっていた。 詳細は「レンネル島沖海戦」を参照 ガダルカナル島に向け進撃していた第18任務部隊では、護衛空母2隻の速力不足が顕著となっていた。ギッフェン少将は護衛空母2隻と駆逐艦2隻を分離した。1月29日朝、日本軍偵察機はレンネル島南方方面に「戦艦4、重巡3、軽巡および輸送艦10数隻、北北西に向け18ノット」という大艦隊を発見した。さらに複数の偵察機が派遣され、触接につとめる。距離が遠かったので零式艦上戦闘機の掩護がつけられず、陸上攻撃機による薄暮攻撃を敢行した。同29日夕刻、会合点に向かう第18任務部隊は、ラバウルから飛来したの一式陸上攻撃機と九六式陸上攻撃機に襲われた。陸攻部隊は日本時間17時20分ごろから照明弾を投下しつつ夜間攻撃を開始する。第18任務部隊は第一波攻撃(705空、一式陸攻)を撃退したが、第二波攻撃(701空、九六陸攻)で被害をうけた。被弾炎上した陸攻がシカゴに体当たりを敢行し、火災が発生して良い目標となった。17時45分にシカゴの右舷缶室に1本、続いて前部機械室付近に1本と、計2本の魚雷が命中する。シカゴは航行不能になった。ギッフェン少将は第18任務部隊に避退を命じ、ルイヴィルがシカゴを曳航することとなった。日本側は陸攻1機が自爆、陸攻2機が未帰還となった。檜貝少佐も戦死した。 翌30日朝、曳航の任務はルイビルから曳船ナバホ (USS Navajo, AT-64) に交代した。午後、ブカ島より発進した第七五一海軍航空隊の一式陸上攻撃機11機が、第18任務部隊を追撃した。陸攻隊は護衛空母部隊や、エンタープライズから派遣されたF4F戦闘機10機の妨害を受け、陸攻3機が撃墜された。のこる陸攻8機が雷撃を敢行した。4本の魚雷がシカゴに命中する。2日のうちに総計6本もの魚雷が命中したシカゴは救う見込みがなくなり、総員退艦が令された。ナバホからの曳航用ロープも切られ、シカゴは.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯11度25分 東経160度56分 / 南緯11.417度 東経160.933度 / -11.417; 160.933の地点で艦尾を先にして沈没した。シカゴ沈没のほかにも駆逐艦ラ・ヴァレット (USS La Vallette, DD-448) に魚雷1本が命中し、損傷した。これに対し日本海軍の陸攻隊も激しい対空砲火と戦闘機の迎撃を受け、陸攻7機を失い、帰投した4機もかなり被弾していた。日本側は戦果を過大評価し、華々しい大本営発表をおこなった。なお第二艦隊の陽動にひっかかったアメリカ軍は日本軍の本当の目的に気付かず、水雷戦隊によるケ号作戦は成功した。 シカゴの喪失に、米海軍司令部は衝撃を受けた。護衛艦隊が敵機には致命的な存在であるはずの新兵器で極秘扱いの近接信管(VTヒューズ)弾を搭載した対空砲を装備しており、なおかつ10機の戦闘機の直衛までつけていたのに沈没したためである。ニミッツの強い要請で、シカゴの喪失は海軍部外へはしばらく秘匿されることになった。これは以前の空母沈没の発表で日本軍に防御上の不利益を大統領が独断で公表した過去の経緯からきたものである。実際、対空砲火による陸上攻撃機隊の被害も相当なものだったので、防空態勢に不備があったとは言い難いが、対空システムへの不信感が部内に広がることを危惧したためである。 シカゴは後に第二次世界大戦の戦功で3個の従軍星章を受章した。
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レンネル島沖海戦
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「テイラー (DD-468)」の記事における「レンネル島沖海戦」の解説
1943年1月27日、僚艦と共にハヴァンナ港を発ったテイラーら第18任務部隊は、ガダルカナル島周辺で活動する数個の任務部隊の一つとして活動した。レンネル島沖海戦に参加した第18任務部隊は日本軍の航空攻撃を受けた。1月29日、一式陸上攻撃機による魚雷攻撃に見舞われた第18任務部隊は対空砲火によって最初の攻撃をほとんど損害なく乗り切った。空襲との戦いは続き、重巡洋艦シカゴ(USS Chicago, CA-29)に魚雷が命中し大きな損害を負わせた。重巡洋艦ルイビル(USS Louisville, CA-28)にシカゴが曳航される間、テイラーは2隻を敵機から守るべく随伴した。翌日も敵機の攻撃は続き、シカゴにはさらに4本の魚雷が命中しついに沈没した。テイラーら僚艦は乗員の退艦を援護した後エファテ島に戻った。
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