ホラーサーン地方の破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/11 16:08 UTC 版)
「モンゴルのホラズム・シャー朝征服」の記事における「ホラーサーン地方の破壊」の解説
1220年秋にチンギスは進軍を再開し、開城を拒んだテルメズを破壊した。 トゥルイの率いる一軍がホラーサーン地方に分遣され、1220年から1221年にかけての冬にはバダフシャーン地方がモンゴルの攻撃を受けた。トゥルイはチンギスの女婿トクチャルをホラーサーン侵攻の先遣隊として派遣し、トクチャルによってナサーで虐殺・略奪が行われた。1220年11月にトクチャルはニーシャープール攻撃中に戦死し、後任の指揮官は現有戦力でニーシャープールを攻略することは難しいと考えて包囲を解き、サブザワール、トゥースの攻撃に向かった。ホラーサーンの主要都市メルヴでは主戦論者と降伏論者の間で内訌が起こり、1221年2月にメルヴに到達したトゥルイはモンゴルへの抵抗を主張するトルクメン族を破り、メルヴはモンゴルの軍門に下った。一部の職工と奴隷とされた子供を除いたメルヴの住民は虐殺され、セルジューク朝のスルターン・サンジャルの廟には盗掘された後に火が放たれた。 4月10日にはモンゴル軍に抵抗を続けていたニーシャープールが陥落し、トクチャルの寡婦は10,000の兵士を率いて市内に入り、夫の死の復讐のために4日の間殺戮を行った。ニーシャープールには殺害された住民の首を積み重ねた塔が建てられ、破壊された町の跡には大麦の種が蒔かれたと伝えられている。ニーシャープールを攻略したトゥルイはホラーサーン地方の都市の中で唯一モンゴルの攻撃を免れていたヘラートに向かい、ヘラートへの進軍中にトゥースに建立されていたハールーン・アッ=ラシードの廟とアリー・リダーの廟を破壊した。ヘラートの包囲攻撃は1週間にわたり、長官を失ったヘラート市民はモンゴル軍の降伏勧告を受け入れて開城した。ヘラートにはイスラム教徒の知事とモンゴル軍の司令官が置かれ、トゥルイはチンギスの命令を受けてバルフとメルヴの中間に位置するタールカーンに向かい、本隊と合流した。モンゴル帝国のホラーサーン地方侵攻の際、メルヴ近辺に居住していたオグズの一支族がアナトリア半島に移住し、彼らがオスマン帝国の始祖となった伝説が残る。 タールカーンのヌスラト・クー城塞は6か月間モンゴル軍の攻撃を防ぎ、モンゴル軍は捕虜を前線に立たせて城砦を攻撃した。ウルゲンチを陥落させたチャガタイとオゴデイもチンギスの本隊に合流し、チャガタイらと別れたジョチはシル川の北方に移動した。1221年春にアム川北部の都市は破壊され、あるいはモンゴルに降伏し、バルフはモンゴルに帰順を申し出た。チンギスが率いる本隊はヒンドゥークシュ山脈を越えてバーミヤーンに進軍するが、戦闘中にチャガタイの子モエトゥケンが流れ矢に当たり落命する。チンギスは全ての生き物を殺すことを命令し、無人となったバーミヤーンはマウ・バリク(悪い町)と呼ばれるようになった。 一方、ガズナに入ったジャラールッディーンは、アラーウッディーンの叔父アミーン・ムルクが率いる兵士と将軍サイフッディーン・アグラークが率いる兵士を加え、60,000あるいは70,000の騎兵を率いて1221年春にパルワーンに進軍した。ジャラールッディーンがガズナに移動した報告を受け取ったチンギスは人口の多いバルフを背後に残して進軍することに不安を覚え、バルフの住民を虐殺し、防壁を破壊した。パルワーン近郊でホラズム軍はテケチュク、モルグルが率いる1,000人のモンゴル兵を破り、敗戦の報を受け取ったチンギスはシギ・クトクに30,000の兵士を与えてジャラールッディーン討伐に派遣した。ホラズム軍はパルワーンの戦いでモンゴル軍に勝利を収めるが、戦後ホラズム軍内で戦利品の馬を巡って口論が起こり、サイフッディーン・アグラークはジャラールッディーンの元から離脱した。 チンギスがパルワーンの戦闘の報復のために進軍していることを知ったジャラールッディーンはガズナからインダス川に退却し、ホラズム軍を追撃するチンギスもまたインダス川に向かった。1221年11月24日、インダス河畔の戦いでホラズム軍はモンゴル軍の包囲を受け、ホラズム軍の右翼と左翼は壊滅する。ジャラールッディーンは包囲の突破を試みるが成功せず、乗馬と共にインダス川を渡り、インドに逃走した。ジャラールッディーンに続いてインダス川に飛び込んだホラズム兵はモンゴル軍によって射殺され、矢の射程距離までの河水がホラズム兵の血で赤く染まったと伝えられている。チンギスはジャラールッディーン追撃のために将軍バラとドルベイを派遣するが、二人はジャラールッディーンの行方を見失う。バラとドルベイはムルターン、ラホール、ペシャーワルなどのインド北部の都市を襲撃した後、インダス川を渡ってモンゴルに帰還しようとする本隊に合流した。 パルワーンの戦いの後、1221年11月にジャラールッディーンの戦勝の噂が広まったヘラートで暴動が起き、モンゴル軍は暴動の鎮圧に半年を要した。1222年6月14日にヘラートを制圧した将軍イルジギデイは1週間にわたる処刑を行い、1,600,000の人間が虐殺されたと伝えられている。メルヴではトゥルイによって任命された知事が生き残った住民に殺害されたが、シギ・クトクは報復として大規模な殺戮を行った。ガズナでもオゴデイによって職工を除いた住民が虐殺され、略奪の末に街は廃墟となった。 イラン東部、アフガニスタンへの進軍に際して十分な調査が行われていなかったためか、軍隊の行動から計画性が失われ、無意味な戦闘、攻撃、虐殺が目立ち始める。イスラーム学者の史書にはホラーサーン、アフガニスタンの各地で100万人単位の人間がモンゴル軍によって虐殺された記述が見られる。ただし、当時の人口、軍功が誇張された可能性、モンゴル軍が降伏を促すために自ら広めた「破壊」と「殺害」の噂から、実際に行われた破壊と殺戮は史書の記述ほど極端なものではなかったと指摘されている。
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