ホラーサーンでの蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:02 UTC 版)
「アブー・ムスリム」の記事における「ホラーサーンでの蜂起」の解説
747年6月15日、アブー・ムスリムが指揮する軍隊はメルヴ近郊でアッバース家の象徴である黒旗を掲げて蜂起する。衣服と旗を白で統一していたウマイヤ朝に対し、アブー・ムスリムの軍勢は黒一色の軍旗と衣服を使用していた。周辺の住民が続々と革命軍に加わって兵数は7,000人に達し、シーア派を信奉するアラブ人だけでなく民族差別に反感を抱くイラン系イスラム教徒も従軍していた。ホラーサーンに移住したヤマン(イエメン)系のアラブ人が革命軍の中核を構成していた。革命軍の参加者は自分の名前と出身の村だけを名簿に登録し、それぞれが所属する部族の名前は名簿から除かれていた。748年2月4日にアブー・ムスリムはメルヴを占領し、ウマイヤ朝のホラーサーン総督ナスルを追放した。同748年にニーシャープールを占領する。アブー・ムスリムが起用した人間には優れた資質の持ち主が多く、配下のカフタバ・イブン・シャヒーブ、ハサン親子が率いる革命軍は西進し、748年9月2日にクーファに入城した。 748年8-9月ごろ、イブラーヒームがウマイヤ朝に捕らえられ、殺害される。残ったアッバース家の人間の中で誰がカリフとなって革命を主導するか決まっておらず、アブー・ムスリムはカリフの選出に強い発言力を行使した。749年11月、アブー・ムスリムと革命軍はイブラーヒームの弟アブー・アル=アッバース(サッファーフ)をカリフに選出し、いち早くバイア(忠誠の誓い)を行った。アブー・ムスリムはサッファーフから宰相のアブー・サラマの殺害を諮られ、刺客を雇ってアブー・サラマを暗殺した。アブー・サラマを暗殺した後、おそらくアブー・ムスリムは自分も同じ末路を辿ると考えていた。
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