ドイツにおける受容史
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「フェールベリンの戦い」の記事における「ドイツにおける受容史」の解説
„Der Große Kurfürst ging mit Macht,um Frieden zu erlangen.Bald kam der Schwed' aus Mitternacht,Durch Frankreichs Geld getrieben,Mit seiner Lapp- und Finnenmacht,Ließ sehr viel Bosheit übenIn dem Kur- und Brandenburger LandMit Kirchenraub und Plündern.Es ward verjaget Mann und Weib,Das Vieh ward durchgeschossen,Man macht’ es, daß nichts überbleib,Das vielen sehr verdrossen;Bis daß zuletzt der große HeldSich plötzlich eingefunden,Und seinen Namen in der Welt,Noch höher aufgebunden.“ – Neues Lied von der glücklichen Victorie (1675)大選帝侯は軍とともに行った、平和を得るために。やがてスウェーデン軍が真夜中に来たる、フランスの金に駆られて。そのラップ人やフィン人の軍勢でとても多くの悪を成す。選帝侯領とブランデンブルクの地で、教会荒らしや略奪をもって。男女とも追われ、家畜は撃ち殺され、何も残らないようにし、多くの者を怒らせた。ついに大いなる英雄が突然現れてその名をこの世界にさらに高らかに広めるまで。 『幸いなる勝利の新しい歌(1675年)』 すでに同時代から、「フェールベリンの戦い」は全ヨーロッパの注目を集めている。「まだ一度も独力で戦いに赴いたことのなかったブランデンブルク軍が、優勢なスウェーデン軍を戦場で打ち払った」のである。さらに神聖ローマ帝国では、この勝利によって何よりも三十年戦争の時と同じように、フランス=スウェーデン間の覇権争いの舞台になるという同時代人の切実な不安が払われたのであった。それゆえ遠いシュトラースブルクでさえフリードリヒ=ヴィルヘルムの歌が詠まれ、その中でこのホーエンツォレルン家の当主が初めて「大選帝侯」と称えられたことは驚くに値しない(右記を参照)。数年後の1682年でもなお、フランクフルト・アム・マインで出版されたテアートルム・エウロペーウム(英語版)が下記の評価を記している。 この勝利によってどのような歓喜がドイツの地の内外に湧き起こったか、そしてすでに人々が選帝侯閣下に抱いていた尊敬や仰望がいかに広まったか、その臣下と所領に生じていた閣下への恭順と愛情がいかに深まったか、書き表すことはできない。幾千もの人々が喜びに涙し茫然として、かくも勇敢に戦うことを教えたこの英雄の腕に接吻したのである。 スウェーデン側の歴史記述はフェールベリンの会戦に撤退戦以上の意味を与えていない一方、ドイツ側の文献はここに歴史上の転換点を見出している。従って「フェールベリンの騎兵の日」は第一次世界大戦の終わりまで、ブランデンブルクの勝利にプロイセン興隆の始まりを見出すドイツの歴史家から、特別な関心を引いていたのである。この見方には早くも18世紀、その起源があった。プロイセン国王フリードリヒ2世は1751年に上梓した『ブランデンブルク家の歴史の回顧録』(Mémoires pour servir à l’Histoire de la maison de Brandebourg)ですでに「有名で決定的な戦い」に触れ、それが「怜悧よりも勇気によって引き起こされ」「(選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが)長旅で疲労した小規模な騎兵隊をもって、その勇敢さで神聖ローマ帝国とポーランドを破った、多勢で有力な歩兵に打ち勝った」戦いであり、「その子孫はこの有名な会戦を、ブランデンブルク家がそこから到達した偉大さの始まりと受け止めている」と記述している。 後世の歴史家は、1675年6月28日が「戦場においてブランデンブルク=プロイセン興隆の始点を示した、ブランデンブルクの勝利の日である」という、この解釈を受け継ぐ。第二次世界大戦の後、この見方から軍の美化は大幅に抜け落ちたものの、この戦い自体は現在もなお歴史上の転換点として認められている。例えば1998年、歴史家のハインツ・シリンク(英語版)は「フリードリヒ2世の下でプロイセン神話となるホーエンツォレルン家当主の軍事的巧緻は、フェールベリンに始まった。」と記述した。 ドイツにおける歴史記述の、フェールベリンの戦いに関するその他の観点は選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムと、戦闘中に彼が果たした役割の美化にある。その焦点化は19世紀の間に集中的に行われ、帝政の時代にその頂点に達した。この解釈の目的は支配者の家であるホーエンツォレルン家の神話の構築であり、それゆえに特に教科書で頻繁に扱われたのであった。例えば1905年の教科書にはこうある。 彼(フリードリヒ・ヴィルヘルム)は騎兵隊の先頭に立って最も激しい混戦の中に斬り込み、すでに浮き足立っていた兵たちに呼びかけた。「奮い立て、勇敢な兵士たちよ!そなたらの主君にして今の隊長である私は、勝つか、さもなくば騎士らしくそなたらと死すことを望む!」 その時、特別な役割を果たしたのは選帝侯の主馬頭、エマヌエル・フローベンの伝説的な振舞いであり、それは軍国主義的な時代において求められた義務遂行の象徴となった。それに拠れば選帝侯は選帝侯は白馬に乗っており、主馬頭はスウェーデン兵がそれを他と比べて何度も撃っていることに気付いた。その白馬が怯えているという口実を設け、彼は選帝侯を説き伏せ、自分が乗っていた茶色の馬と交換する。それから数分後、主馬頭は凶弾に倒れた。帝政時代の教科書で、フローベンの行動はしばしば職務遂行の模範として描写されている。 選帝侯は御自ら乱戦のただ中へ斬り込まれた。(中略)その御傍で、主馬頭エマヌエル・フローベンが戦死した。言い伝えに拠れば、その忠誠の犠牲となって。 これは当時の若い世代に、「皇帝、国民と祖国のための英雄的な最期を」という主張を身近に感じさせるための手段の一つとなったのである。
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