ティンダル聖書から欽定訳聖書まで
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「英語訳聖書」の記事における「ティンダル聖書から欽定訳聖書まで」の解説
聖書全体の近代英語訳として最初のものは、1535年に出版されたカヴァーデイル聖書(en:Coverdale Bible)で、ティンダルが未訳だった旧約聖書の一部分をマイルス・カヴァーデイル(en:Myles Coverdale)がラテン語とドイツ語聖書から訳し、ティンダルの聖書に付け加えたものである。マシュー聖書(en:Matthew Bible)は"トーマス・マシュー"(Thomas Matthew)という偽名を使ってジョン・ロジャーズ(John Rogers)が1537年に出版した。これもティンダルが以前に出していた版に、旧約聖書の未出版原稿を加え、さらに足りない部分をカヴァーデイルの訳で補ったものである。ティンダルの挑発的な注釈が取り除かれていたから、かつてはティンダル聖書を禁止したヘンリー8世(在位:1509 - 1547年)はこの聖書を認可した。よって、これを主流英語訳聖書の最初と考えることができる。タヴァナー聖書(en:Taverner's Bible)はマシュー聖書のマイナー改版で1539年に出版されたものである。 大聖書(en:Great Bible)として知られる聖書は1539年であり、ふたたびカヴァーデイルによって訳された。大聖書は文字通りそのサイズが大きかったために付けられた名前であり、教令に沿って発行されたものである。その教令によれば、各教会はできるだけ大きくて完全な聖書を、誰にでも読める場所に置いておかなければならず、それによって全ての教区民は何時でも好きなときに聖書に接することができるのである。その教令は1538年であり、ティンダル聖書が禁止されてから12年後、ティンダルが焚殺されて2年後のことだった。 この大聖書の設置は大きな反響を呼び、至る所に人が群がった。ボナー(Bonner)司教はセントポール寺院にこの聖書を6部置いたのだが、説教の最中にも聖書から人が離れないので困っている。あるグループが読み上げる声やそれに続く議論に邪魔されることがしばしばだったので、静かにしていられないならミサの間は聖書を片付けると脅かさなければならなかった。この大聖書は2年間で7版を重ね、30年間影響力を保った。多くの英語祈祷文はこの聖書から採られている。 しかし、この自由化はあまりにも突然すぎて人々はごく当然に聖書を濫用するようになった。聖なる言葉が、議論され、捻じ曲げられ、バラッドにされ、すべての酒場でがなりたてられていることに対してヘンリー8世は苛ついた。民衆が王の意図を汲み取らなかったので王は聖書の制限を始める。いかなる翻訳版にも注釈や解釈を入れてはならず、すでにそれらが入っていた翻訳版はその部分が黒く塗りつぶされ、上流階級の人たちのみに聖書の所有が認められた。王の死の前年には大聖書以外の翻訳版は禁止されたのである。この聖書だけは、その大きさと値段からいって、こっそりと使うには不向きであった。そして1546年には、大聖書以外の翻訳聖書が焚書され、宗教改革の指導者たちはヨーロッパのプロテスタントの街であるフランクフルトやストラスブールへ亡命した。 エドワード6世(在位:1547年 - 1553年)の摂政サマセット公は聖書の翻訳出版の規制を緩め、禁圧されてきた翻訳聖書は再出版された。各教会における大聖書の扱いも改められ、4福音書に対してはエラスムスの異読が加えられることになった。部分訳も含めると50近くの翻訳聖書が6年の間に現れている。 その後、メアリー1世(在位:1553年 - 1558年)はローマ・カトリックへの回帰を目論んだが、民衆の心を読み違えた。過激なプロテスタンチズムに国民は疲れ果てているだろうと彼女は考えたのである。しかし、宗教に関して外国の支配を受けたいとは彼らは露ほど思ってはいなかった。カトリックへ復帰しようとする女王の努力もむなしく、大聖書を含むプロテスタント翻訳聖書の秘密使用は続いていた。 一方、イギリスのプロテスタント系学者は亡命せざるを得なかったがフランクフルトやジュネーヴといった都市で制約を受けることなく彼らは聖書研究に打ち込んだ。特に改革派の学者たちがそれまでで最高の新しい英語訳聖書であるジュネーブ聖書を完成し、1560年に出版した。ジュネーブ聖書は後年、エリザベス1世の元で大聖書に取って代わることになり、エリザベス時代に60版が出されている。 今日お馴染みの聖書の章句に章番号と節番号をつける方法は、このジュネーブ聖書以来のものである(章分けは3世紀前に確定していたが、節についてはこの訳で確定する)。また、難しい部分には注釈がついており、そのいくつかがジェームズ1世に問題にされてしまい、新しい翻訳、つまりジェームズ王欽定訳聖書、のきっかけを作ることになる。翻訳が完成したのはエリザベス女王の即位後のことであり、メアリー女王時代に追放されていた多くの宗教指導者たちは既に英国に帰国した後のことだった。 ジュネーブ在住のイギリス人会衆を司牧するウィリアム・ホイッティンガム(en:William Whittingham)がジョン・ノックスの後を継いでジュネーブ聖書を完成させたのだが、彼はジャン・カルヴァンの妹と結婚しており、この翻訳はイギリスの権威筋からはカルヴァン主義に傾きすぎているとみなされた。 エリザベス1世(在位:1558年 - 1603年)の時代には大聖書とジュネーブ聖書が一般に用いられていた。ジュネーブ聖書がエリザベス1世の認可を得ることは望み薄であった。ひとつにはノックスやカルバンが関わっている翻訳だったからで、エリザベス1世は両人とも、特にノックスを嫌っていた。また、その注釈が王室統治権に好意的ではなく攻撃的だったし、外国で出来たものなので疑惑の目が向けられていたのである。 パーカー大司教は認可改訳聖書を提案し、改訳委員会を選出し、できるかぎり大聖書に従った上で辛辣な注釈を避け、自由に簡単に自然な英語として読める翻訳を作るように求めた。それが司教たちの聖書(en: Bishops' Bible、英国国教会だから本来なら「主教」)であり、エリザベス即位10年目の1568年に発行された。パーカーは病床から1冊を送っているが、彼女がこのことに触れて何か言ったという記録はない。「司教たちの聖書」は様々な点でジュネーブ聖書の影響を受けているが、そのことは言及されておらず、1611年の欽定訳聖書が現れる前には消えてしまっている。 ドゥエ・ランス聖書(Douay-Rheims Bible)とはフランスのドゥエ(Douai)大学に関係のあった、イギリスのカトリック系の学者たちの仕事である。フランスのランスで新約聖書が1582年に、旧約聖書が1609年に発行されたが、これは欽定訳聖書の直前だった。ヘブライ語とギリシア語の原典は参照されているが、ラテン語のウルガタからの翻訳である。この聖書には他の英語翻訳と共にジュネーブ聖書の影響が認められるが、その注釈は強烈に反プロテスタントであり、その前文ではプロテスタントは「聖なるものを犬に、豚に真珠を投げ与えた」ことで罪を犯したと述べて、この翻訳の存在意義を説明している。 この翻訳はそれまでの親しみやすい翻訳とは異なっている。その英語は口語ではなく教会用語に満ち、プロテスタント訳がカトリックから異なってしまった章句についての解説がついている。この翻訳は1750年にChalloner司教によって改訂されているが、引き続きドゥエ=ランス聖書と呼ばれ、細かい改訂を重ねながら1941年まで英語圏におけるカトリック標準訳となった。
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