ティンダル聖書から欽定訳聖書までとは? わかりやすく解説

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ティンダル聖書から欽定訳聖書まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/09 06:17 UTC 版)

英語訳聖書」の記事における「ティンダル聖書から欽定訳聖書まで」の解説

聖書全体近代英語訳として最初のものは、1535年出版されたカヴァーデイル聖書en:Coverdale Bible)で、ティンダル未訳だった旧約聖書一部分をマイルス・カヴァーデイル(en:Myles Coverdale)がラテン語ドイツ語聖書から訳しティンダル聖書に付け加えたのであるマシュー聖書en:Matthew Bible)は"トーマス・マシュー"(Thomas Matthew)という偽名使ってジョン・ロジャーズJohn Rogers)が1537年出版した。これもティンダル以前出していた版に、旧約聖書未出版原稿加え、さらに足りない部分をカヴァーデイルの訳で補ったのであるティンダル挑発的な注釈取り除かれていたから、かつてはティンダル聖書禁止したヘンリー8世在位:1509 - 1547年)はこの聖書認可した。よって、これを主流英語訳聖書最初考えることができる。タヴァナー聖書en:Taverner's Bible)はマシュー聖書マイナー改版1539年出版されたものである大聖書en:Great Bible)として知られる聖書1539年であり、ふたたびカヴァーデイルによって訳された。大聖書は文字通りそのサイズ大きかったために付けられた名前であり、教令沿って発行されたものである。その教令によれば、各教会できるだけ大きくて完全な聖書を、誰にでも読める場所に置いておかなければならず、それによって全ての教区民は何時でも好きなときに聖書接することができるのである。その教令1538年であり、ティンダル聖書禁止されてから12年後ティンダル焚殺されて2年後のことだった。 この大聖書設置大きな反響呼び至る所に人が群がったボナーBonner司教セントポール寺院にこの聖書を6部置いたのだが、説教最中にも聖書から人が離れないので困っている。あるグループ読み上げる声やそれに続く議論邪魔されることがしばしばだったので、静かにしていられないならミサの間は聖書片付けると脅かさなければならなかった。この大聖書2年間で7版を重ね30年影響力保った多くの英語祈祷文はこの聖書から採られている。 しかし、この自由化あまりにも突然すぎて人々はごく当然に聖書濫用するようになった聖なる言葉が、議論され、捻じ曲げられバラッドにされ、すべての酒場がなりたてられていることに対してヘンリー8世苛ついた。民衆が王の意図汲み取らなかったので王は聖書制限始める。いかなる翻訳版にも注釈解釈入れてはならず、すでにそれらが入っていた翻訳版はその部分黒く塗りつぶされ上流階級の人たちのみ聖書所有認められた。王の死前年には大聖書以外の翻訳版は禁止されのである。この聖書だけは、その大きさ値段からいって、こっそりと使うには不向きであった。そして1546年には、大聖書以外の翻訳聖書焚書され、宗教改革指導者たちはヨーロッパプロテスタントの街であるフランクフルトストラスブール亡命したエドワード6世在位1547年 - 1553年)の摂政サマセット公聖書の翻訳出版規制緩め禁圧されてきた翻訳聖書再出版された。各教会における大聖書扱い改められ、4福音書に対してエラスムスの異読が加えられることになった部分訳含めると50近く翻訳聖書6年の間に現れている。 その後メアリー1世在位1553年 - 1558年)はローマ・カトリックへの回帰目論んだが、民衆の心を読み違えた過激なプロテスタンチズム国民疲れ果てているだろうと彼女は考えたのである。しかし、宗教に関して外国支配受けたいとは彼らは露ほど思ってはいなかった。カトリック復帰しようとする女王努力むなしく大聖書を含むプロテスタント翻訳聖書秘密使用続いていた。 一方イギリスプロテスタント系学者亡命せざるを得なかったがフランクフルトジュネーヴといった都市制約を受けることなく彼らは聖書研究打ち込んだ。特に改革派学者たちがそれまでで最高の新し英語訳聖書であるジュネーブ聖書完成し1560年出版したジュネーブ聖書後年エリザベス1世の元で大聖書に取って代わることになり、エリザベス時代60版が出されている。 今日お馴染み聖書章句に章番号と節番号をつける方法は、このジュネーブ聖書以来のものである章分け3世紀前に確定していたが、節についてはこの訳で確定する)。また、難し部分には注釈がついており、そのいくつかジェームズ1世問題にされてしまい、新し翻訳、つまりジェームズ王欽定訳聖書、のきっかけ作ることになる。翻訳完成したのはエリザベス女王即位後のことであり、メアリー女王時代追放されていた多く宗教指導者たちは既に英国帰国した後のことだった。 ジュネーブ在住イギリス人会衆司牧するウィリアム・ホイッティンガム(en:William Whittingham)がジョン・ノックスの後を継いでジュネーブ聖書完成させたのだが、彼はジャン・カルヴァンの妹と結婚しており、この翻訳イギリス権威筋からはカルヴァン主義傾きすぎているとみなされた。 エリザベス1世在位1558年 - 1603年)の時代には大聖書ジュネーブ聖書一般に用いられていた。ジュネーブ聖書エリザベス1世認可を得ることは望み薄であった。ひとつにはノックスカルバンが関わっている翻訳だったからで、エリザベス1世両人とも、特にノックス嫌っていた。また、その注釈王室統治権好意的ではなく攻撃的だったし、外国出来たものなので疑惑の目が向けられていたのであるパーカー大司教認可改訳聖書提案し改訳委員会選出しできるかぎり大聖書従った上で辛辣な注釈避け自由に簡単に自然な英語として読める翻訳作るように求めた。それが司教たちの聖書en: Bishops' Bible英国国教会だから本来なら「主教」)であり、エリザベス即位10年目1568年発行された。パーカー病床から1冊を送っているが、彼女がこのことに触れて何か言ったという記録はない。「司教たちの聖書」は様々な点でジュネーブ聖書影響受けているが、そのこと言及されておらず、1611年欽定訳聖書現れる前に消えてしまっている。 ドゥエ・ランス聖書(Douay-Rheims Bible)とはフランスドゥエDouai大学に関係のあった、イギリスのカトリック系の学者たちの仕事である。フランスランス新約聖書1582年に、旧約聖書1609年発行されたが、これは欽定訳聖書直前だった。ヘブライ語ギリシア語原典参照されているが、ラテン語ウルガタからの翻訳である。この聖書には他の英語翻訳と共にジュネーブ聖書影響認められるが、その注釈強烈にプロテスタントであり、その前文ではプロテスタントは「聖なるものに、豚に真珠投げ与えた」ことで罪を犯した述べて、この翻訳存在意義説明している。 この翻訳それまで親しみやすい翻訳とは異なっている。その英語は口語ではなく教会用語に満ちプロテスタント訳カトリックから異なってしまった章句についての解説ついている。この翻訳1750年にChalloner司教によって改訂されているが、引き続きドゥエ=ランス聖書呼ばれ、細かい改訂重ねながら1941年まで英語圏におけるカトリック標準となった

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