ダブリン時代とは? わかりやすく解説

ダブリン時代(1882年 - 1904年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 01:42 UTC 版)

ジェイムズ・ジョイス」の記事における「ダブリン時代(1882年 - 1904年)」の解説

ジェイムズ・ジョイス1882年ダブリンの南のラスガーという富裕な地域没落してゆく中流カトリック家庭に、10兄弟長男として生まれた(他にも2人兄弟がいたが腸チフス亡くなっている)。母メアリ・ジェーン・ジョイス(旧姓マリー 1859〜1903)は敬虔なカトリック信者で、父ジョン・スタニスロース・ジョイス(1849〜1931)はコーク県出身で、小規模な塩と石灰製造業を営む、声楽冗談を好む陽気なであったジョイス家の先祖となった人物コネマラ石工だったが、父ジョン父方祖父ジェイムズ(181166)はいずれ裕福な家と婚姻関係結んだ1887年ジョンダブリン市役所徴税人任命され家族ブレイ郊外新興住宅地引っ越したその後ジョイス家は経済的に困窮して幾度にもわたる引越し余儀なくされたため生家現存せず、ジェイムズ・ジョイス・センタージェイムズ・ジョイス記念館はそれぞれ別の場所に建てられている)。このころジョイス噛まれ生涯にわたる犬嫌いとなった。他にジョイス苦手なものとしては、敬虔な叔母に「あれは神様がお怒りになっている印だよ」と説明され以来恐れようになった雷雨などが知られている。 1891年アイルランドの政治指導者で父ジョン熱烈に支持していた「王冠なき国王C・Sパーネル死に際して、当時9歳ジョイスは「ヒーリーよ、お前もか」("Et Tu, Healy?")と題した詩を書いた(ティモシー・ヒーリーはパーネル裏切り政治生命絶った人物)。ジョンはこれを印刷しバチカン図書館コピー送りさえした。同年11月ジョン破産宣告受けて休職1893年には年金給付の上解雇された。この一件からジョン酒浸りになり、経済感覚摩耗あいまって一家貧困への道をたどりはじめることとなる。 ジョイス1888年からキルデア県全寮制学校クロンゴウズ・ウッド・カレッジで教育受けたが、父の破産により学費払えなくなったため1892年には退校せざるをえなかった。自宅ダブリンのノース・リッチモンド・ストリートにあるカトリック教区学校クリスチャン・ブラザーズ・スクールでしばらく学んだのち、1893年ダブリンイエズス会経営する学校ベルベディア・カレッジに招聘され籍を置くジョイス聖職者となることを期待して招待であったが、ジョイスそれ以上カトリック信仰深めることはなかった(ただし、ジョイス小説エッセイにおいては"Epiphany"や"Jesuit"などのカトリックの用語が頻出しカトリック神学者トマス・アクィナス哲学ジョイス生涯通じて強い影響をもちつづけた)。 1898年ジョイス設立されまもないユニバーシティ・カレッジ・ダブリン入学し現代語、特に英語、フランス語イタリア語学び有能さ発揮したまた、ダブリン演劇文学サークルにも活発に参加し、『隔週評論』誌にイプセン戯曲わたしたち死んだものが目覚めたら』("Når vide vågner" 、1899年)の書評イプセン新し演劇」("Ibsen's New Drama")を発表したりなどした。この書評ジョイス最初に活字となった作品であり、ノルウェーでこれを読んだイプセン本人から感謝の手紙が届けられている。この時期ジョイスは他にもいくつかの記事少なくとも2本の戯曲書いているが、戯曲現存していない。また、こうした文学サークルでの活動きっかけとして1902年にはアイルランド人作家W・B・イェイツとの交友生れている。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンでの友人たち多くはのちのジョイス作品中登場している。 1903年学士学位得てユニバーシティ・カレッジ・ダブリン卒業したのち、ジョイスパリへ留学する医学勉強表向き理由であったが、貧し家族ジョイス浪費癖手を焼いて追い払ったというのが真相である。しかし、癌に冒された母の危篤の報を聞いてダブリンに引き返すまでの数ヶ月間も、あまり実りの無い自堕落な生活に費やしていたという。母の臨終の際、ジョイスは母の枕元祈り捧げることを拒否した(母と不仲であったためではなくジョイス自身不可知論者であったことによる)。母の死後、ジョイス酒浸りになり家計はいっそう惨憺たるものとなったが、書評書いた教師歌手などをして糊口しのいだ1904年1月7日ジョイス美学テーマとしたエッセイ風の物語芸術家肖像』("A Portrait of the Artist")を発表しよう考え自由主義的な雑誌Dana』へ持ち込んだが、あっさりと拒絶された。同年誕生日ジョイスはこの物語修正加えて『スティーブン・ヒーロー』("Stephen Hero")という題の小説改作しようと決意したこのころ、彼はゴールウェイ県コネマラからダブリンへやってきてメイドとして働いていたノラ・バーナクル(1884〜1951)という若い女性出会った。のちの作品ユリシーズ』はダブリンのある1日できごとを1冊に封じ込めたものであるが、この「ある1日」こそ、二人初めデートした1904年6月16日」にほかならないブルームズデイ参照)。 ジョイスその後もしばらくダブリンとどまりひたすら飲み続けたこうした放蕩生活をしていたある日ジョイスフェニックス・パーク一人の男と口論の末喧嘩になり逮捕された。父ジョン知人アルフレッド・H・ハンターなる人物身元引き受けとなってジョイス連れ出し怪我面倒をみるため自分の家招いたハンターユダヤ人で、妻が浮気をしているという噂のある人物であり、『ユリシーズ』の主人公レオポルト・ブルームのモデル一人となっている。またジョイスは、やはり『ユリシーズ』の登場人物バック・マリガンのモデルとなるオリバー・セント=ジョン=ゴガティ(のちに本業医者としてだけでなくW・B・イェイツから称賛されるほどの文筆家として知られるうになる)という医学生とも親しくなり、ゴガティ家がダブリン郊外サンディコーヴ所有していたマーテロー・タワーに6日間滞在している。その後二人口論になり、ゴガティが彼に向けて銃を発砲したためジョイス夜中逃げ出し親戚の家に泊めてもらうためダブリンまで歩いて帰った翌日置き忘れてきたトランク友人取りに(盗りに?)行かせている。この塔は『ユリシーズ劈頭舞台となっているため現在ではジョイス記念館となっている。 その後まもなく、ジョイスノラ連れて大陸駆け落ちした

※この「ダブリン時代(1882年 - 1904年)」の解説は、「ジェイムズ・ジョイス」の解説の一部です。
「ダブリン時代(1882年 - 1904年)」を含む「ジェイムズ・ジョイス」の記事については、「ジェイムズ・ジョイス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ダブリン時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ダブリン時代」の関連用語

ダブリン時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ダブリン時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのジェイムズ・ジョイス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS