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キャリアスタート
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 03:06 UTC 版)
「ジョン・ローブリング」の記事における「キャリアスタート」の解説
ローブリングがアメリカに渡ったのは、適切な時期ではなかった。その1年前にアンドリュー・ジャクソン大統領が、道路、鉄道、運河の建設に予算1億ドルを認可していた。当時のアメリカは後年言われるところのマニフェスト・デスティニーの時代であり、西部に進出していた時期であった。アメリカ東部の産業のハブとフロンティアとを結ぶ交通網の整備が、国家的にも民衆的にも関心事であった。手始めに、ローブリングはエンジニアとしての仕事ではなく、生きるために耕作を始めた。 5年後、テーラーの娘であったジョアンナ・ハーティング・ローブリングと結婚。10年間で9人の子供に恵まれた。 長男 - ワシントン・オーガストス・ローブリング(1837-1926) 長女 - ローラ・R・メスフェッセル(1840-1873) 次男 - フェルディナンド・ローブリング(1842-1917) 次女 - エルビラ・R・スチュワート(1844-1871) 三女 - ジョセフィーヌ・R・ジャービス(1847) 三男 - チャールス・ギュスターブス・ローブリング(1849-1918) 四男 - エドムンド・ローブリング(1854-1930) 五男 - ウィリアム・ローブリング(1856-1860) 四女 - ハナ・ローブリング(幼くして死去) ローブリングにとって農作業は納得のいく仕事ではなかった。カールが死去し、一方、第一子が誕生した1837年、彼はエンジニアとしての仕事に戻った。 ローブリングがアメリカで初めて手がけたエンジニアとしての仕事は、河川改良と運河の建設であった。続く3年間、ペンシルベニア州 ハリスバーグとピッツバーグとをアレゲーニー山脈を越えて結ぶ鉄道建設に従事。1840年、吊り橋技術者のチャールズ・エレット・ジュニア(Charles_Ellet,_Jr.)に手紙を書き、フィラデルフィア近郊で橋梁設計の手助けをしたい旨を伝えた。 ヨーロッパで過ごした末期に数年間、吊り橋について勉強し、もっとも私の好きなものとなりました。フィラデルフィアに、まさにその吊り橋を架けたい。そして、その持てる長所すべてが織りなす美しい形を披露したい。まったく新しい、そして使いやすいという吊り橋がアメリカ人の心に知性を呼び起こす効果があることは、言うまでもないでしょう。 1841年、サクソンバーグの仕事場でワイヤを開発した。そのころ、フィラデルフィアからピッツバーグに向かう運河の船は、台車に乗せられてアレゲーニー山脈を越え、反対側の水路まで運ばれていた。その一連の作業をするのはアレゲニー・ポーテージ鉄道というインクラインであった。そのインクラインでは、台車の牽引には9インチに束ねた麻のロープを使っており、たびたびロープの切断事故があった。 ローブリングはボートを引き上げる作業者を見ていたある日、その事故が起こり、ボートは山の下部まで落ちていった。彼はふとドイツの雑誌でワイヤロープについて載っていたことを思い出した。すぐにワイヤロープの開発に着手し、芯となるワイヤの回りに編み上げていくことでタイトに仕上げるという製造方法を開発した。 ローブリングはワイヤロープを大量生産するためにローブリング・アンド・サンズ・カンパニーをスタートさせた。このワイヤロープは、ローブリングが設計したすべての吊り橋で使用された。彼は学生時代から、吊り橋のアイディアに魅了され続けており、卒業論文もこれであった。
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