アダルトビデオの誕生と萌芽
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「アダルトビデオの歴史」の記事における「アダルトビデオの誕生と萌芽」の解説
1975年にベータマックス(ソニー)が、1976年にVHS(ビクター)が発売されると、1981年5月に日本ビデオ映像から『ビニ本の女・秘奥覗き』と『OLワレメ白書・熟した秘園』が発売された。これがアダルトビデオの第1号と言われている(当時はポルノビデオと呼称された)。この作品は日本で初めてビデオ撮りされたポルノ映像で、それ以前の劇場公開型のポルノ映画とは異なるまったく新しい独自の流通を目指した新商品として製作された作品であった。1981年に一般家庭へのビデオデッキ普及率が10%を突破すると、次第にアダルトビデオも普及し始め、映画用のフィルムカメラを用いた大がかりな撮影システムが必要なく、重量20kg程度のビデオカメラが開発されると、参入障壁の低さから制作に参入する小企業も出現した。 このポルノ作品は業界に大きな波紋を広げ、1981年7月、にっかつビデオフィルムズは『生撮りシリーズ』を刊行。同年11月、愛染恭子の『愛染恭子の本番生撮り 淫欲のうずき』が発売され、「本番」という演出法が男性を刺激し、2万本を超える大ヒットを記録した。この作品でビデオ作家としての確たる評価を得た監督の代々木忠は、1982年8月には『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズを刊行。従来のビデオ撮りという手法は用いているもののそれまでのポルノ映画の演出法を引継いだ劇映画調の作品からの訣別を図った。 上記シリーズは1981年にビニ本業界の大手ハミング社がビデオ部門として設立した宇宙企画のビデオと共に、後のアダルトビデオ業界の方向性を決定付けたとも言われており、『ビデオ・ザ・ワールド』(1985年4月号)において中村正平は「お手軽ポルノドラマが全盛だったご時勢に宇宙企画の出した『素人生撮り』シリーズは"動くビニ本"といった趣を持つビデオとしてのメディアに覚醒した画期的なもので、ポルノビデオの方向性を決定付けた。このインタビューオナニー形式は代々木忠の『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズで完成され、空前のセールスをあげた。」と評している。1982年の『ドキュメント ザ・オナニー』シリーズの第一弾『主婦斎藤京子の場合』が8万本のセールスを記録し、アダルトビデオブームが起こり、1983年のビデオカタログには、90社ものAVメーカーが掲載された。また、当時、一部のラブホテルではビデオカメラとビデオデッキを設置した客室があり、カップルが自ら撮影したものを観賞して楽しむことができたため、その映像が流通することもあった。 中でも後のアダルトビデオという造語を創出した小路谷秀樹は宇宙企画の初期人気作品を多数作り上げた監督の一人で、1982年の『女子高生素人生撮りシリーズ 美知子の恥じらいノート』や『SM体験 早見純子の場合』『実験SEXデート』などの作品を世に送り出してヒットさせ、アダルトビデオ市場は「ドキュメントもの」と呼ばれる作品が大半を占めるように。 当時、自主規制機関である日本ビデオ倫理協会は、3分以上の連続した性交描写を許可しておらず、ハードコアの表現を規制していた。こうした背景と、ビデオデッキの普及から裏ビデオと呼ばれる作品がブームを巻き起こす。こうしたビデオは家電量販店のビデオデッキ購入景品として出回り、『洗濯屋ケンちゃん』や田口ゆかりの『サムライの娘』『ザ・キモノ』などの作品が多くの庶民の手に渡った。表ビデオ業界はそれまでのドキュメントものやソフトコアでは対抗できないと危機感を募らせる中、宇宙企画が発売した『ミス本番 裕美子19歳』(1983年)は、業界に衝撃を与えた。それまでの表ビデオの作品にも本番を謳うものは存在していたが、旬を過ぎたワンランク下のモデルが担当するジャンルであり、キワモノ的な扱いだった。ソフトヌードで充分通用するレベルのモデルが、いきなりハードコアでデビューするという、常識を覆した作品であった『ミス本番 裕美子19歳』は2万本を超える大セールスを記録。『ミス本番』シリーズとして宇宙企画におけるトップブランドに君臨した。 その後の小路谷秀樹の『私を女優にしてください「何でもやります」竹下ゆかり19歳』、『ミス本番 有希子めぐり逢い』(1984年)などのヒットにより、女優の清潔感がセールスの上での重要な演出点であることが確立されると、本番の有無よりも女優としての質にこだわりが見られるようになり、1984年末から1985年にかけて、第一次美少女ブームと呼ばれる時代が訪れた。渡瀬ミク・早川愛美・永井陽子・杉原光輪子・森田水絵・中沢慶子などの人気モデルに加え、いわゆる本番をしない小林ひとみ・麻生澪・秋元ともみなどの女優が誕生した。『ミス本番』で開放的なセックスを演じた吉沢有希子も早見瞳に改名後は本番を拒否し、『GORO』のインタビューにおいて、「そういうことは自分の好きな人とだけがいいと思います。」と述べている。 「美少女が本番行為をする」という起爆剤で以って一般に広く認知されたアダルトビデオは、「美少女」の要素のみを拡大させて行った。やがて「擬似本番」という言葉とともに、直接の性行為からリアルな感情を引き出す演出法は衰退。「アダルトビデオで演技をする人」いわゆるAV女優という言葉を生み出した。
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