『政治的リベラリズム』
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「ジョン・ロールズ」の記事における「『政治的リベラリズム』」の解説
詳細は『政治的リベラリズム』を参照。 ロールズの2作目の主著は『政治的リベラリズム』(Political Liberalism, 1993)である。同書で、ロールズは人間の善に関する市民の間の哲学的、宗教的、道徳的不合意の文脈における政治的正統性の問題に目を向けた。そのような不合意は―ー自由な国家が保護するように設計されている開かれた探求と自由な良心という条件の下での人間の合理性の自由な行使の結果として――理にかなっていると彼は主張した。理にかなった不合意に向き合う正統性の問いは、ロールズにとって緊急であった。なぜなら、「公正としての正義」の彼自身の正当化は、理にかなって拒絶可能である人間の善のカント的構想に依拠していたからである。『正義論』で提示されている政治哲学が、人間の繁栄についての論争的な構想によってのみ示されるのであれば、そのような構想によって秩序づけられるリベラルな国家は正統でありうるのかが不透明になる。 これは、一見すると、『正義論』で扱われなかった新しい懸念であるように思われる。しかし、この懸念を導く直観は、『正義論』を導いている基本的な考え方と変らない。それは、社会の基本的な憲章は、社会的、法的、および政治的制約のもとで人生を送る市民が、理にかなって拒絶できない原則、論拠、理由にのみ頼らなければならないという考えである。換言すれば、法律の正統性は、その正当化が理にかなって拒絶できないということを条件とする。この古い洞察は『正義論』を支えるものであった。しかし、その適用に関しては「公正としての正義」の深い正当化にまで拡大する必要があることにロールズが気づいたときに、新しい形を取った。彼は『正義論』において、「公正としての正義」の正当化を自律的な道徳的主体性の自由な発展としての人間の繁栄という理にかなって拒絶可能な(カント的)構想に沿って提示していた。これに対して、『政治的リベラリズム』の核心は、リベラルな国家は正統性を獲得するために「公共的理性の理想」にコミットしなければならないという主張である。これはおおまかに言って、公共的な立場にある市民は、理由としての地位が市民の間で共有されている理由にのみ相互に依拠しなければならないことを意味する。したがって、政治的推論は純粋に「公共的理性」の観点から進められなければならない。例えば、同性愛者の結婚の拒否が修正第14条の平等保護条項の違反を構成するかどうかを判断する最高裁判所の判事は、この問題に関する彼の宗教的信念に訴えかけることはできないが、彼は同性の世帯が子供の発達のために望ましくない状況を提供するという議論を考慮に入れることができる。これは、神聖なテキストの解釈に基づく理由が(理由としての力は、理にかなって拒絶しうる信仰のコミットメントに依存するという意味で)非公共的であるためである。一方で、発達するための最適な環境を子供たちに提供することの価値に依拠する理由は、公共的理由――理由としての地位は、人間の繁栄について深く論争の余地のある構想を利用していない――である。 ロールズは、シヴィリティの義務――理由として相互に理解されうる理由を相互に提供する市民の義務――は、彼が「公共的政治フォーラム」と呼ぶ領域に適用されると主張した。このフォーラムは、たとえば社会の最高の立法機関や司法機関といった政府の上部から、州議会で誰に投票するか、または国民投票でどのように投票するかを決定する市民の判断までに渡る。また、選挙運動中の政治家も、選挙区の非公共的な宗教的または道徳的信念に屈することを控えるべきであると彼は信じた。 公共的理性の理想は、リベラルな国家の基盤となる公共的な政治的価値(自由、平等、公正)の優位性を確保する。しかし、これらの価値の正当化についてはどうなるのか。そのような正当化は、理にかなって拒絶されるであろう深い(宗教的または道徳的な)形而上学的コミットメントを必然的に利用するため、ロールズは公共的な政治的価値は個人によってのみ私的に正当化される可能性があると考えた。公共的なリベラルな政治的構想とそれに付随する価値が(司法の意見や大統領の演説などで)公共的に承認される場合はあるが、その深い正当化は行われない。正当化の課題は、ロールズが「理にかなった包括的教説」と呼んだものと、それに従って生きる市民に向けられる。理にかなったカソリックの教徒は、リベラルな価値をある仕方で正当化し、理にかなったイスラムの教徒は別の仕方で正当化し、世俗的な市民はさらに別の仕方で正当化する。ベン図を用いてロールズの考えを説明することができる。公共的な政治的価値は、多数の理にかなった包括的教説が重なりあう共有の領域になる。 『正義論』で提示されているロールズの安定性の説明は、カント的な包括的教説と「公正としての正義」との両立可能性の詳細な描写と捉えることができる。彼の望みは、他の多くの包括的な教説についても同様の説明が提示されることである。これは、ロールズの有名な「重なり合うコンセンサス」という観念である。 そのようなコンセンサスは必然的にいくつかの包括的教説、すなわち「理にかなっていない」包括的教説を除外するだろう。理にかなっていない包括的教説がまさに理にかなっていないのは、シヴィリティの義務と両立できないからである。これは、理にかなっていない包括的教説が、自由、平等、公正という正義のリベラルな理論が保護するように設計されている根本的な政治的価値と両立しないということでもある。したがって、ロールズがそのような教説について何を言わなければならないかという質問に対する1つの答えは、何もないということである。一つには、リベラルな国家がそのような教説を保持する個人(宗教原理主義者など)に自らを正当化することはできない。なぜならそのような正当化は、(すでに記されているように)公共的な政治フォーラムから排除された、論争的な道徳的または宗教的コミットメントの観点から進められるからである。しかし、より重要なのは、ロールズのプロジェクトの目標は、主に政治的正統性のリベラルな概念が内的に首尾一貫しているかどうかを判断することであり、このプロジェクトは、リベラルな価値観にコミットする人々が政治問題についての彼らの対話、熟議および議論で互いにどのような理由を使用してよいのかを特定することによって進められる。ロールズのプロジェクトはこの目標を持ち、リベラルな価値観をまだコミットしていない、または少なくとも態度を明確にしていない人々に正当化するという問題を予め排除している。ロールズの懸念は、シヴィリティと相互正当化の義務という観点から具体化された政治的正統性という考えが、現代民主主義社会の宗教的および道徳的多元主義に直面してもなお、実行可能な形式の公共的討論として役に立つのかどうかに関係しており、政治的正統性の自身の構想をそもそも正当化するのではない。
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