「反乱」の真意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/18 07:42 UTC 版)
「フアン・デ・カルタヘナ」の記事における「「反乱」の真意」の解説
カルタヘナは背後に通商院、フォンセカ、そしてブルゴス商人の意図があるとは云え、国王から信任された監察官であり、メンドーサらカスティーリャ人船長たちもまた貴族階級に属する者たちだった。彼らにはスペインの名誉と国益のためにもマゼランを監視する義務があった。マゼランが当初決められていた航路を変更し、それによって航海が停滞する事態に陥ると、なんら協議も指示も受けていない彼らがマゼランに疑念を抱くのは当然のことだった。だが、故国ポルトガルの妨害やフォンセカら通商院の横槍を振り切って出帆にこぎつけただけあって、マゼランが彼らに抱く不信感は彼ら以上に確信的なものであった。その差によって彼らは早々に指揮権を奪われることとなった。 カルタヘナらとしては、これ以上の無謀に付き合うことに危機感を感じながらも、王命で参加した以上、後にエステバン・ゴメスが取ったように無断で離脱することも、あるいは自分たちと同等以上の権限を授かり、個人としても器量、胆力の違いを見せつけられたマゼランを武力で排除するわけにもいかなかった。立場と現状との板挟みになったカルタヘナらが取った行動は、反乱というよりマゼランの変心をうながす抗議活動に近いものがあった。その動機の弱さは、サン・アントニオ号を制圧した後、彼らがマゼランに送った通告文から見て取れる。 彼らがマゼランに送りつけたのは最後通告でも挑戦状でもなく、「嘆願書(スプリカシオン)」と銘打った極めて低姿勢のものであった。この嘆願書で彼らは自らの抗議活動を弁明し、あなたの提督権を奪う意図はなく、我々の待遇を改善してくれれば、「たとえあなたをここまでは専横と呼んだとしても、ここから先はあなたのことを閣下と呼び、あなたの足と手に口づけするであろう」と以後は忠実に従うと記されていた。 だが、前人未到の僻地で、当時誰もが信じていなかったアメリカ大陸を断ち切る海峡を探すという英雄的な使命感に燃えていたマゼランに、彼らの悲鳴は届かなかった。マゼランは彼らの弱気をあざ笑うかのように、まず人質がいるサン・アントニオ号ではなく、ビクトリア号を船長殺害という手段で再制圧した。使命達成の鬼となり、そのために怜悧、非情の判断も取れるマゼランの前に、カルタヘナらは威圧され、後手に回り、やがて踏み潰される運命であった。 1522年9月6日にビクトリア号が帰還し、マゼランの航海は本人を欠いて終了した。この時点で、カルタヘナらの実情を知らせることができるであろう人物は、生還したエルカーノと伝記役を務めたアントニオ・ピガフェッタ、そしてマゼラン海峡目前で離脱したゴメスのみであった。この内、途中離脱したゴメスは自らの背信行為を糊塗するためにマゼランの専横を告発し、彼らは海峡を発見することなく死に絶えたと訴えた。エルカーノが帰還したことでゴメスの立場は危うくなったが、エルカーノ自身も反乱に加担した経緯を知られることを恐れるのは明白で、互いの汚点をかばい合うように沈黙して栄誉を分かち合った。ちなみに、反乱の後再びサン・アントニオ号船長に就任したメスキータはゴメスによって再び囚われたまま帰国し、帰国後もゴメスの告発によってスペインに囚われるなど、都合3度鎖に繋がれることになった。 栄光に包まれたエルカーノやゴメスに比べて、外国人であるピガフェッタは大した栄誉を与えられないまま宮廷を後にした。発奮した彼はその後、各地で航海の伝記を遺していく。地球一周による日付けのずれを証明したこともあり、ピガフェッタの活動は16世紀の学界に広く知り渡ることになり、結果としてマゼランに不朽の名声を与えることとなった。ただ、艦隊の中枢にいなかったピガフェッタが伝えたのは冒険の成果であって、途上の政治的軋轢とは無縁だった。 一方、マゼラン死後エルカーノと別れ、トリニダード号でパナマ地峡ダリエンを目指していた一行は荒天と飢餓で航海を断念。モルッカ諸島に戻り、テルナテ島のポルトガル要塞に救助同然に拿捕された。その内、後任の船長を務めていたエスピノサと水夫のヒネス・デ・マフラは拘束され、インド経由でエルカーノらに遅れること4年後、1526年に自力ではないにせよ、世界周航から帰還している。彼らはリスボンにて7ヶ月の拘留の後釈放されている。すでにエルカーノも他界しており、そもそもメンドーサ殺害の張本人である彼らからカルタヘナにまつわる証言がなされたという記録は残されていない。 かくして、ゴメスとエルカーノが沈黙し、ピガフェッタの活動によってマゼランの名誉が回復され、フォンセカが1524年にこの世を去り影響力を失うと、カルタヘナらの真意を伝える者も、その立場を弁護する者もいなくなってしまった。そして彼らは叛徒として、成功者たちの栄光、偉業の影に埋もれることとなった。 マゼランがカルタヘナとケサーダに下した裁きは、57年後に訪れた艦隊に危険な判例を与えた。太平洋沿岸のスペイン船を私掠するべくマゼラン海峡を根城にしたフランシス・ドレークは、友人であったトーマス・ドウティに背かれ、彼を鎖に繋いでサン・フリアン湾に到着した。このケサーダが首を打たれ、カルタヘナが置き去りにされた砂浜で、ドレークはドウティに同じように死ぬか置き去りにされるかを問うた。ドウティは死を選んだ。ツヴァイクは繰り返された死の裁判をカルタヘナらの「暴動」の顛末の最後に取り上げ、こう締めくくっている。 「人類のもっとも記憶すべき事業がほとんどいつでも流血にけがされ、もっとも苛酷な人々が最大の成功をおさめるということは、人類の永遠の宿命なのだ!」
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