「チリの奇跡」
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「アウグスト・ピノチェト」の記事における「「チリの奇跡」」の解説
詳細は「チリの奇跡」を参照 経済政策では、ミルトン・フリードマンが主張する新自由主義を実行し、「シカゴ学派」と呼ばれるフリードマンの弟子のマネタリスト(シカゴ・ボーイズ)を大勢招いた。ピノチェトは世界恐慌以来続いた輸入代替政策の大規模な否定に取り掛かったのである。事実、ピノチェトは政権奪取後から短期的には良好な経済成長を実現し、フリードマンはピノチェトの政策を「チリの奇跡」と呼び、ピノチェトの支持者たちは「アジェンデの失政によって混乱した経済を立て直した」と評価した。 ピノチェト時代には経済の中心がそれまでのサンティアゴ=バルパライソから南部のテムコや北部のアリカや、イキケ、コピアポに移動した。経済的には日本との貿易関係が拡大し、低く抑えられた賃金による農業セクターの拡大もあり、特にブドウ産業が成長したことで、チリワインの生産も拡大し本格的な輸出品となった。 新自由主義政策においては企業の民営化がなされたのみならず、アジェンデ時代に行われた農地改革も否定され、農民に分配された農地は大土地所有者の手に戻った。また、徹底的な民営化政策にもかかわらず、当時チリは世界最大の銅の輸出国で銅はチリ経済に果たしていた役割の大きさのために、コデルコのような国営銅企業を設立してアジェンデ時代に国有化された鉱山の民営化はなされなかった。また、1982年-1983年の大幅なマイナス成長のため、1984年10月にはクルサト・ラライン・グループの8銀行が国有化された。 また、フリードマンらが評した「チリの奇跡」にもかかわらず、ピノチェト政権の1973年から1990年までの実質GDP成長率は年平均で3.70%に留まり、ピノチェトが否定しようとした輸入代替工業化政策期(1940年から1973年)の3.86%を下回った。新自由主義政策は一部の者にのみ富を集中させただけで、1975年にマイナス12.9%、1982年にはマイナス14.1%と恐慌に直面しており、このように平均では決して高くないパフォーマンスを記録せざるを得なかったのである。さらに、1975年には4.3%であった失業率が、80年代平均では22.5%に上昇した。貧富の差は急激に拡大し、アジェンデ政権期のような極端な物不足はなくなった代わりに、輸入品が国内に雪崩れ込み製造業が壊滅。貧困率がアジェンデ政権下の2倍の40%に達したほかハイパーインフレも深刻で、インフレ率が数百%にまで達している。1985年にはエルナン・ビュッヒが経済相に就任し、1987年から1989年まで銅の価格が国際的に上昇したことも助けとなり、1987年には6.6%、1988年には7.3%、1989年には10.6%と高い実質GDP成長率を記録した。1985年から1996年までの実体経済における平均成長率は、チリ以外のラテンアメリカ諸国を上回る7%となった。 経済全体としては国内生産が15%下落、賃金は1970年の3分の1にまで激減するのみならず、1973年には2億ドル程度であった公債費が1979年初頭には16億ドルにまで急増。国民生活の貧窮ぶりは目を覆うばかりであり、1976年にはフランスの科学機関がチリ国民の栄養状態について、次のような報告書をまとめている。 「 2歳の幼児が地面に座り込み、ほとんど体の均衡を保つこともできないのを見ると、心は悲しみに沈む。この子は立つことができず、歩くことも話すこともできない。体重はわずか9キログラムしかない 」 しかし、乳児死亡率については1970年から1985年にかけて1000人当たり82.2人から19.5人へ下落し、1980年代にラテンアメリカ諸国で最低を記録した。
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