「タチ」・「タキ」・「タセ」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/09 04:27 UTC 版)
「超短波警戒機乙」の記事における「「タチ」・「タキ」・「タセ」」の解説
「超短波警戒機乙」は種類別に細分化され、主なもので要地用の「タチ6号」(約350台製造)、車載野戦用の「タチ7号」(1942年10月開発開始、1943年4月完成。製造は数台に止まり軽量型の「タチ18号」に開発量産移行)、軽量型車載野戦用の「タチ18号」(1944年1月完成。約400台製造)がある。命名規則は地上設置型は「タチ」、航空機搭載型は「タキ」、船舶搭載型は「タセ」と称しレーダーごとに後ろに番号が付され、各種が開発された。 「タキ」型を除いて出力は50kW、探知距離は約300km(162海里)で海軍の同種のレーダーよりも探知能力が高かった。しかし、原則として陸軍のレーダーは波長の長いメートル波レーダーであり、表示は後述のAスコープ方式に限られた。また小型化にも限界があり、最も小型化された車載野戦用の「タチ18号」でもシステム全体で4トンの重量があった(「タチ7号」は18トン)。また、初期の「タチ6号」は送信アンテナが無指向性の独テレフンケン型だったため(後にダイポール型としてある程度の指向性を持たせた)、八木・宇田アンテナのような指向性アンテナに比較して敵方に電波を逆探知されやすい事が弱点であり、アンテナの数が送信1に対して受信が複数の構成だったので、受信アンテナを送信アンテナ側に直接向けないようにしつつ、他の受信アンテナとの干渉を起こさぬようにも留意しながら動かす必要があるなど、操作要員には熟練した技術が要求された。しかし、こうした「タチ」型の送信アンテナの特性を逆手にとり、構成機器を受信機のみとして軽量化を図った高度測定用の「タチ20号」も開発された。「タチ20号」は最寄りの「タチ6号」の送信アンテナ波を利用して、受信した測定距離から受信・送信アンテナ間の距離を差し引く事で目標の探知を行うもので、測定距離が短い半面、受信アンテナが一つしかない為に角度や高度の計算が容易で、電波標定機としても利用できる利点があった。陸軍船舶部隊が運用する特種船(揚陸艦)向けの船上レーダー「タセ1号」(1942年11月開発開始、1943年2月完成)も基本的には「タチ20号」と類似した構成である。 機上レーダーでは「タキ1号」(1943年1月開発開始、同年3月完成)が唯一終戦までに配備が間に合ったものであった。これは1943年3月に完成するも手直しを経た実用化自体は1944年初頭と遅れたものの、超短波でありながら大型艦船を100km・浮上潜水艦を20kmの距離で探知可能で(出力10kW)、機首と両翼に取り付けた指向性アンテナの切り替えにより等感度法で方向探知も行える優れた機上レーダーであった。重量150kgという大きさから搭載は双発機である九七式重爆撃機で運用され実戦投入された。 しかしながら、超短波警戒機乙の技術はレーダー技術史上では比較的初歩の三極管を用いたメートル波方式で、アンテナも非指向性のテレフンケン型または限定的な指向性を有するダイポールアンテナの採用に留まり、水準としてはバトル・オブ・ブリテンの時点でイギリスが採用していた無指向性アンテナを使用し、複数地点より観測して目標位置を特定する短波帯の「CHレーダー」と同等のものであった。同時期の海軍の同種のレーダーに比較して高出力で、より遠方の航空機も探知可能な利点はあったものの、イギリスがその後直ぐに八木アンテナを使用したVHFレーダーを実用化し、更には元々は日本人が開発した技術であるマグネトロンの開発に1940年に成功し、1941年にはこれを用いたより精緻な探知能力を持つマイクロ波レーダー、次いで1942年には世界初の平面座標指示画面(英語版)(PPIスコープ)を採用したH2S (レーダー)の開発にも成功したのに対して、陸軍は最後までメートル波レーダーとAスコープ式の表示方式の領域から脱却できず。探知の精度は電探要員の個々人の解析技術に頼らなければならない状況であった。 また、当時の日本製電子兵器の弱点は、優良な銅素材の不足による真空管の耐久性の低さにあった。これにより、レーダーの高出力化、システムの小型化など全ての面で連合国に後れを取る事になった。
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