天守
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明治以降の天守
明治以降の城の、天守の扱いについては歴史 - 明治以降に前述したとおりである。天守の一覧も参照。
現存天守
1873年(明治6年)に廃城令が公布され、多くの城の建造物が失われた。廃城令発布以後も残った天守は60余あったが、その後も破却は進み第二次大戦までに20か所となった。
さらに、1945年(昭和20年)に米軍の空襲を受けて水戸城、名古屋城、大垣城、和歌山城、岡山城、福山城、広島城の7か所が失われた。
1949年(昭和24年)には松前城天守が失火による火災により失われ、現在、江戸期以前から存在している天守は日本国内に12か所ある。そのうち5か所が国宝、うち姫路城は世界遺産であり、残り7か所がいずれも国の重要文化財に指定されている。これらは、現存12天守(十二現存天守)、国宝五城、重文七城(重文七天守)などと呼ばれている。
近・現代の天守建設
明治以降には、城郭自体の廃止に伴って天守などの城郭建築を造ることはなくなったが、天守に似せた建物や、旧城の天守を再建したものはある。地域振興の目的で天守が再建または建設され始めたのは昭和以降のこととなる。
特に盛んに建てられ始めたのは第二次大戦後の復興期(昭和30年代ごろから)であり、空襲で焼失したものや古写真や絵図に描かれた天守、伝説上の天守などが鉄筋コンクリート構造で建設されているものが多い。それらの多くの天守は遺構の上に造られているため、礎石を移動したり、石垣の積み換えなどを行うので、特に近代工法で建てられた模擬天守や復興天守・外観復元天守などは「歴史遺構の破壊になっているのでは」との意見もあった[要出典]。平成期には建築技術の向上からコンクリート造りなどでの天守の建設は減り、また、文化庁の遺跡における建造物の復元方針の厳格化に伴い木造による、より忠実な復元が原則となった。
近現代に造られた天守は、復元天守(復原天守)(木造復元天守・外観復元天守)・復興天守・模擬天守・天守閣風建造物に分けられている。このほかに、復元天守と復興天守を合わせて再建天守ということがある。なお、学者・研究者の見解により以下の記述はしばしば相違しており、特に復元天守以外の分類は差異が大きく、書籍により記述が大幅に異なる場合も散見されるため、以下には一般的な見解を示す。
復元天守(復原天守)
火事・天災・破却・戦災で消失した天守を、少なくとも外観は以前の通りに復元したものをいう。太平洋戦争での米軍の爆撃により損失した天守が主である。さらに、木造復元天守と外観復元天守に分けられる。一方で、日本の文化庁は木造復元のみを「復元」とみなしている[19]。
木造建築による天守の復元には、建築基準法や消防法などの法令による制約があり、これらの法令の適用除外を認められねばならない。また国の史跡に指定されている城跡での再建行為については、文化財保護法に基づき文化庁長官より現状変更許可を受けねばならず、同庁により「考古学的遺産の保存管理に関する国際憲章[注 3]」に基づいた再建行為が求められている。
木造復元天守
木造復元天守とは、天守が現存した当時の図面・文書記録・遺構などに基づき、当時使われていた材料(木材の種類)・構法・工法[注 4]によって忠実に原状に復したものを指す。
平成になり、建築技術の向上と建設省の指導を受けつつ伝統的工法に限りなく近づけた木造による天守の復元が原則となった[20]。
天守に準ずるものとしての木造復元天守の最初のものは、1990年(平成2年)築の「白河城 御三階櫓」(福島県白河市)であるが、当時の法の抜け穴を利用した建築であった。1994年(平成6年)4月築の「掛川城 天守」(静岡県掛川市)は、建築基準法の適用除外や消防法の特例として認可された最初の「木造復元天守」[21]であるとする一方、山内一豊が高知城天守を作事するに当たって「掛川のとおり」と指示したことを参考に現存天守の「高知城天守」を内部参考に、宮上茂隆が考証。2004年(平成16年)に竣工した「大洲城天守」(愛媛県大洲市)は、木造4階建てが法的に認められた復元天守の最初の例であり、江戸時代に製作された天守雛形(軸組み模型)や画像資料、出土遺構などから、従来の姿に復元された例でもある[20]。名古屋城も、木造復元を目指している。白石城、新発田城も木造復元天守である。
外観復元天守
鉄骨鉄筋コンクリート構造などを用いて、外観だけを往時のように再現したものをさす。 昭和の戦後から平成の初めにかけて多く建築され、多くの天守内部は、最上階を展望施設とし、他フロアには城の歴史資料や郷土資料などを展示し広義の博物館として利用されている。この種の天守の最初のものは、1957年(昭和32年)築の「名古屋城 天守」(愛知県名古屋市)である。
建築基準法施行令によって4階以上の木造建築の建設は筋交や金物の使用、コンクリート基礎とする必要があるなどの制約や消防法など、厳密な意味で天守を復元すると、耐震基準や建物の利用に関する安全性を満たすことはできないため、天守を野外復元できるだけの資料が揃っていたとしても、鉄筋コンクリート構造の天守を建てざるをえなかった。また、鉄筋コンクリート構造は木造建築の数倍の重量となり、石垣や礎石などの本来の基礎では耐えられないため、天守台の補強と新たな基礎工事を行って建てられる。
外観復元とは言うが、観光などの目的のために細部に変更を加えたり、細部では建築基準法に則した結果としてどうしても窓の規模・場所・形状が異なったり、屋根の反り具合が異なる場合がある。たとえば、戦後に外観復元された「名古屋城」や「大垣城」(岐阜県大垣市)の天守は、戦前の外観をほぼ踏襲しているが、展望台としての目的を考えて最上層の窓が往時よりもやや大きく造られている。なお「小田原城」(神奈川県小田原市)のように仕様を大きく変更をしてしまった場合は許容範囲外として復興天守とすることもある。また、平成初期ごろから文化庁の定める城郭史跡における当時の建造物復元に関し、基準・審査が厳しくなっていったこともあり、許容範囲内であっても近代の材料・工法による外観復元天守も厳密には復興天守に入るという見解も存在する(復興天守を参照)。
復興天守
天守がかつて存在したことは確かで、元の場所に構造問わず再建された天守のうち、史料不足[注 5]により規模や意匠に推定の部分があるものをいう。また、規模・意匠を再建時に改変してしまったものも含まれる。
この種の天守の最初のものは、昭和18年、焚き火による失火で焼失した1910年(明治43年)築の「岐阜城 天守」(岐阜県岐阜市)である[注 6][9]。現存する最古の復興天守は、1931年(昭和6年)築の「大阪城天守閣」(大阪府大阪市)である。コンクリート建築による再建天守としても最古である(ちなみに戦後初の復興天守は 1954年(昭和29年)築の「岸和田城 天守」(大阪府岸和田市)である)。
復興天守の再建時の改変例としては、「小倉城 天守」(福岡県北九州市)のように、屋根に破風のない層塔型であったものを復興の際、破風を付加して望楼型としているものなどがある。また窓の大きさの違いや、高欄が付加されている「小田原城 天守」や、「岡崎城 天守」(愛知県岡崎市)などもこれに分類することがある一方で、これらの誤りを許容範囲として外観復元天守に分類することもある[9]。
模擬天守
城は実在したが、元々天守のなかった城や、天守が存在したか不明な城に建てられた天守のことである。「復興模擬天守」と呼ばれることもある。また、天守が存在したことは確実でも、史実に基づかないもので異なる場所に建てられた場合もこの部類に入る。三重櫓なども含む。外観は、独自に考えられて造られているものもあるが、現存する「彦根城」(滋賀県彦根市)や「犬山城」(愛知県犬山市)、「高知城」(高知県高知市)を手本としている天守も多い。中には、建築様式の時代考証を無視した建築もある。
主に以下の条件に当てはまる天守を指す。
- 天守が歴史上存在しなかったことが明確な城の跡に建設されたもの
- 天守の存在が不明瞭な城の跡に建設されたもの
- 天守は移築されたという伝承があるが良質の史料がない今治城などがあげられる。
- 天守が建てられなかった城の跡に建設されたもの(伊賀上野城、富山城など)
- 天守は実在したが、異なる場所に再建されたもの(伏見城、清洲城、尼崎城など)
この種の天守の初例は、「洲本城」(兵庫県洲本市・RC造・1928年(昭和3年)築)であり、洲本城天守は復元天守・復興天守を含めても、現存するものの中では最も古い。木造による模擬天守としては、「郡上八幡城」(岐阜県郡上市・1933年(昭和8年))がもっとも古い。ちなみに戦後初の模擬天守は、「富山城」(富山県富山市・RC造・1954年(昭和29年)築)で、2004年(平成16年)国の登録有形文化財(建造物)に登録された。
天守閣風建築物
模擬天守の一部であり、厳密に分けられているものではないが、上記模擬天守の条件に当てはまらない天守の意匠を模して建設されたものをいう。一般的に、テーマパークや観光施設、役所などの公共施設、学校、博物館・美術館・資料館、店舗、個人の住宅など、幅広く天守閣風の建築物を指す。天守風建築、天守風建物とも呼ばれる(伏見桃山城のように模擬天守に分類することもある)。
城自体が実在しなかった例
- 熱海城
- 展望台やレストラン・資料館などを備えた観光施設。1959年完成。歴史上「熱海城」という城が存在していたことを示す史料上の根拠はない。高さは45m。
- お茶の菊川城
- 小阪城
- 理髪店。個人の店舗兼住宅。持ち主の理髪店主が廃材等を用いて自力で造ったもの。平成30年台風第21号により天守を失った。[22]歴史上「小阪城」という城が存在していたことを示す史料上の根拠はない。
- 尾道城
- 救いの城「天使閣」
- 大阪青山大学大阪青山歴史文学博物館
- 森岡城(宮崎県えびの市)
- 不動産会社経営者が故郷に築城、2005年より一般公開している[25]。
城は実在したが場所や意匠が史実を無視している例
- 勝山城博物館
- 1992年完成。勝山城博物館は歴史上の勝山城跡から南に約3kmほど、平泉寺白山神社参道入口の周囲を水田に囲まれた場所に建設されている。高さは57.8mで、天守閣風建築物の中では最も高い。この場所は城跡ではなく、位置・形式ともに歴史上の勝山城とは無関係である。歴史上の勝山城は越前勝山藩主の居城であった。天守台もあったが、天守が建てられたことはなかった。歴史上の勝山城は明治初期の廃城以降、戦後までの内に建物・石垣等はほぼすべて撤去され、跡地は勝山市役所や勝山市民会館の敷地になっている。城郭の遺構はなく、城があったことを示す碑が建てられているのみである。勝山市内には城以外にも藩政時代の遺構がほとんど残っていないため、勝山城博物館を運営する財団は、博物館が地域の歴史遺産の記憶を留めるための象徴としての機能を果たすべく、博物館として天守閣風建築物を建設し、「勝山城」の名を冠したという。
- 常総市地域交流センター[26]
- 合併前の旧石下町地域交流センターとして1992年完成。ホール・展示室・図書室・展望室などを備えた公民館。高さは48.5mあり、勝山城博物館に次ぐ。石下町当時より別名として「豊田城」と公称している。豊田城は実在していたが中世城郭であり、天守も天守台もなかった。地域交流センターの場所は城跡ではなく、また周辺には櫓のような楼閣が数棟建設されているが、いずれも位置・形式ともに歴史上の豊田城とは無関係である。歴史上の豊田城は東側の小貝川沿いに平安時代末期以来存在していたが、江戸時代初めに廃城となった。その後城跡は水田として使用されていたが、明治時代からの小貝川の河川改修により遺構はすべて消滅しており、堤防の上に碑と説明板が建っている。石下町は明治・大正時代の文人長塚節の出身地であるため、天守閣風建築物前にその銅像が建てられている。平成27年9月関東・東北豪雨では西側の鬼怒川堤防から越水し、鬼怒川と小貝川に挟まれた地域交流センター一帯は洪水となったが、地域交流センターは浸水を免れ、住民が天守閣風建築物に避難した[27]。
- 田舎館村役場(田舎館村文化会館)
- 下田城美術館
- 佐和山遊園
- 石田三成を敬愛する滋賀県彦根市の実業家が三成のテーマパークを構想し、佐和山の麓、国道8号沿いに1976年着工。天守閣風建築物「佐和山城天守閣」や「佐和山城城門」などを建設した。かつての佐和山には三成の居城であった歴史上の佐和山城が存在しており、五層(あるいは三層)の天守があった、との記録が残るが、その外観や意匠等は伝わっていない。佐和山遊園の所在地は城跡ではなく、天守閣風建築物の位置・形式ともに歴史上の佐和山城とは無関係である。佐和山遊園は一般財団法人佐和山三成会[28]なる団体により一部施設のみ運営されていたものの、未完成のまま開園に至らず廃墟化、2017年に閉鎖された。既に土地には「売却」の看板が立てられており、天守閣風建築物をはじめとするすべての施設は撤去・解体されるという。関ヶ原の戦いの後、この地に封じられた井伊家が彦根城を築城、歴史上の佐和山城は破城され、廃城となった。石垣の石や築材など彦根城で再利用されたとみられるものがあるが、佐和山城の遺構自体はほとんど残っていない[29]。とりわけ本丸は完全に破却されたといい[30]、天守台跡もない。
- 天神山城
- 広島城木造仮設天守閣
注釈
出典
- ^ 西ヶ谷恭弘監修、枻出版社編『再入門 オトナのための城』(別冊Discovery Japan)枻出版社、2015年、ISBN 978-4-7779-3660-1
- ^ お城からの手紙vol.29
- ^ a b c d 三浦正幸『城のつくり方図典』小学館、 2005年、ISBN 4-09-626091-6
- ^ 内藤昌編著『城の日本史』講談社、 2011年
- ^ a b 城戸久『城と民家』毎日新聞社、1972年
- ^ 田中義成「天守閣考」『史学会雑誌』新年号、1890年
- ^ 宮上茂隆『復元模型 安土城』草思社、 1995年、 ISBN 4-7942-0634-8
- ^ a b c d e f g h i j k l m 服部英雄. “名古屋城天守考・天守はなぜ高いのか”. 名古屋市. 2021年4月10日閲覧。
- ^ a b c d e 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社, 1996年,ISBN 4-05-500160-6
- ^ 内藤昌『復元安土城』講談社、 2006年
- ^ NHKスペシャル「安土城」プロジェクト 『信長の夢「安土城」発掘』
- ^ 西ヶ谷恭弘『定本 日本城郭事典』
- ^ 西ヶ谷恭弘監修『日本の城』世界文化社、1997年
- ^ a b c 三浦正幸監修『【決定版】図解・天守のすべて』学習研究社、2007年、ISBN 978-4-05-604634-2
- ^ 天文12年(1543年)に記された『細川両家記』の永正18年(1521年)2月17日の条
- ^ 木戸雅寿「城から見た 秀吉の遠方支配」石井正明ほか執筆『秀吉の城と戦略』成美堂、1998年
- ^ 加藤理文編『城の見方・歩き方』新人物往来社、 2002年、 ISBN 4-404-03003-7
- ^ 全国城郭管理者協議会編『城のしおり』全国城郭管理者協議会 2005年
- ^ 坂井秀弥・本中眞 編『野外復元 日本の歴史』新人物往来社、1998年
- ^ a b 学習研究社編『歴史群像シリーズ よみがえる 日本の城 30』学習研究社、 2006年
- ^ 掛川市商工観光課発行「掛川城パンフレット」
- ^ “台風で落城した、小阪城が復活!NHK「修繕屋」の手でよみがえる”. 週刊ひがしおおさか (2019年1月6日). 2023年9月29日閲覧。
- ^ “「尾道城」の解体検討 市、観光施設整備へ”. 中国新聞アルファ. (2018年2月17日). オリジナルの2018年2月18日時点におけるアーカイブ。 2020年5月15日閲覧。
- ^ a b c “「尾道城」の解体 年内にも着手”. 中国新聞デジタル (2019年11月22日). 2019年12月18日閲覧。
- ^ [国道221号沿い、こんな所になぜ城が…出身男性が半世紀かけた夢 “国道221号沿い、こんな所になぜ城が…出身男性が半世紀かけた夢”]. 讀賣新聞. (2022年4月7日)2023年3月5日閲覧。
- ^ 地域交流センター 施設概要2018年、常総市
- ^ 茶色一面、必死の救助作業=屋上やベランダ、助け待つ姿-濁流のみ込まれた常総上空2015年9月10日 時事通信 Amebaニュース
- ^ 公益法人等の詳細 法人コード:A024887 法人の名称:一般財団法人佐和山三成会 法人番号(JCN)9160005004889 「事業の概要(3)佐和山遊園(工作物の展示施設)の管理、運営に関する活動」とある。公益法人データベース 総務省
- ^ “痕跡一掃、居城「見せしめ」破壊…発掘で裏付け”. 毎日新聞. (2016年3月25日) 2017年7月4日閲覧。
- ^ 石田三成の佐和山城、徳川に破壊尽くされていた 彦根市教委調査で明らかに、産経WEST、2016年3月26日
- ^ しろうや!広島城 第15号 - 広島城
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