ル・マン24時間レース 優勝車/優勝者

ル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/24 06:32 UTC 版)

優勝車/優勝者

メーカー別勝利数

ポルシェ・956(1983年)
アウディ・R10 TDI(2006年)
ベントレー・4½リットル(1928年)

特筆的な出来事

ドライバー交代なしで24時間に挑戦

ピエール・ルヴェーは1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡ってステアリングを握りトップを走り続けたが、疲労のためギアを入れ間違えてエンジンを壊しリタイアとなった[4]。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このような長時間連続運転はできない。

ルヴェーのリタイアにより優勝を果たしたメルセデス・ベンツのチーム監督であったアルフレート・ノイバウアーは、その後ルヴェーをメルセデスのチームへ招聘している(後述)。

1955年の事故

メルセデス・ベンツ・300 SLR(同型車)
ジャガー・Dタイプ(同型車)

1955年6月11日18時28分、トップを走っていたジャガーマイク・ホーソーンが周回遅れのオースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットイン。後続のオースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが追突を避けようと進路変更したところへ、メルセデス・ベンツを運転するピエール・ルヴェーが避けきれずに衝突し乗り上げ、空中へ飛び上がった。

ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し、車体は分解して炎上。衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客、スタッフ、そしてルヴェーも含めて死者86人、負傷者200人という大事故となった。当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットも同様で、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる。

なお、レースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ということが理由であったほか、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ、救急車が動けなくなるといった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった[5]。優勝者は皮肉にも、大惨事の発端となったホーソーンであった。

この事故の映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。また、ルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行し、コクピットからその一部始終を目撃していたファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360 mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台(カール・クリングのメルセデス)がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった」と述べ、いわゆるレーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)であったことを模型を用いて解説している。なお、事故後の調査でファンジオのメルセデスの車体にホーソーンのジャガーの塗装がこびり付いていたことでごくわずかに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。

メルセデス・チームはトップを走行していたが、事故発生から7時間半後、全マシンを呼び戻して棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マンに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか」と(事故の原因とは関係ない)レギュレーション違反を疑う声があったが、これについてファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「燃料噴射システムの秘密を知られないため」という趣旨の発言をしている[6]

「モータースポーツの安全性」という点に大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランスとイタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、スイスに至ってはモータースポーツそのものが禁止される[注釈 3]など、全世界に大きな影響を残した。F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。

この事故の詳細を記した書籍として『死のレース 1955年 ルマン』が存在する。事故から20年後、当事者の1人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後の動向が著されている。

メルセデス自体も、1985年のル・マン24時間レースザウバー・C8にて復帰するまで、30年にわたってモータースポーツ界から姿を消すこととなった。復帰後の1999年にも、この年に投入したばかりのCLRが3度にわたって宙を舞う事態に見舞われ、「1955年の悪夢再び」と騒がれた。これを受けてメルセデスは再びル・マンから撤退し、2023年現在も参戦していない。

マクリンは後年、モータースポーツの世界を離れてカーディーラー経営者となったが、2002年にこの世を去っている。

フェラーリとフォード

フェラーリ・250LM(1965年)
フォード・GT40Mk2(1966年)

1960年から1963年にかけてル・マン24時間レースを3連覇するなど、1960年代初頭のスポーツカーレースで最強の座に君臨していたフェラーリは、モータースポーツへの過剰投資や、当時イタリア北部で勢力を増していたイタリア共産党などの左翼政党が後援した労使紛争とそれがもたらしたストライキ、さらには創業者エンツォ・フェラーリの妻のラウラによる現場への介入によって、1961年11月にはカルロ・キティら主要メンバーによるクーデターが勃発し、キティやジオット・ビッザリーニら役員8名が去るなどの事件が起きたことも影響し、経営が苦境に陥った。

その後、1963年にはスポーツカーレースでの活躍を望んでいたヘンリー・フォード2世率いるフォード・モーターに買収されることになり、マラネッロの本社で契約の直前まで漕ぎつけた。しかし、金銭面で最終的に折り合わなかったこと、さらにはモータースポーツ部門を引き続き統括したかったエンツォの判断により、急遽白紙撤回された。この背景には、フェラーリを他国の企業に渡したくなかったフィアット・グループのトップ、ジャンニ・アニェッリの意向も影響していたといわれる。

これに怒ったヘンリー・フォード2世は、フェラーリを破ることを目指して、当時「モータースポーツ史上最高額」とも言われるほどの多額の投資をしてGT40を開発し、アメリカ国内外の選手権で経験を積みつつ、1964年にル・マン24時間レースに参戦した。しかし、マウロ・フォルギエーリがル・マン向けに開発したフェラーリ・250LM/275Pに対して、ノウハウがないフォードは苦戦し連敗を喫した。

フォードではキャロル・シェルビー率いるシェルビー・アメリカンの助けを借りてマシンを改良し、さらにフィル・ヒルやボブ・ボンデュラント、マリオ・アンドレッティやデイビット・ホッブス、ダン・ガーニーなどの経験豊富なドライバーを擁して6台もの大量エントリーをすることで1966年に初優勝を飾った。その後はフェラーリがF1に集中したこともあって、以降数年間のル・マンはフォードが連勝することになる。

現在、フェラーリはLM-GTEに参戦するプライベートチームへのマシンの提供という形でル・マンに関わっている一方、フォードはLM-GTEにワークスとして復帰していたものの、2019年で撤退した。

映画俳優の参戦

パトリック・デンプシー(2009年)

ユノディエールとその分割

ユノディエール

ユノディエールは6kmに及ぶ直線であり、300 km/hで走っても1分以上かかった。最高速度が400 km/hに近づくにつれて54秒ほどで走り切るマシンが登場したが、非常に長い時間アクセルを全開にして猛烈なスピードで駆け抜けることになり、特に夜間は自車のヘッドライトだけが頼りとなる。

日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後のサード)の監督を務めた加藤眞は、ユノディエールを走るマシンを見て「マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないか」という印象を持った。

WM・セカテバ・プジョーは、成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度記録に注力し、1988年407 km/hの公式記録を残している。しかし、実際には計測されていないだけで400 km/hを越えたマシンは数多くあったといわれており、1989年にはメルセデス・ベンツのザウバー・C9が決勝走行中に400 km/hを記録した。

国際自動車スポーツ連盟(FISA、後の国際自動車連盟)は、安全性の観点から2 km以上の直線を認めない旨のルールを作成し、ユノディエールを分割するよう圧力をかけた。フランス西部自動車クラブは「これこそがル・マンの特徴である」と主張し、1989年世界スポーツプロトタイプカー選手権: World Sports Prototype Championship, WSPC)から外れて対抗したが、FISAは命令に従わなければ国際格式レースとして認めない旨を通告した。そのままではフランス国外からの参加ができなくなるため、急遽ユノディエールにシケインを2か所挿入するコース改修がなされたが、工事の完成は1990年のレース直前となり、2か月前にFISAのコース査察を受けなければならなかったため、1990年もWSPCからは外れることとなった。

各国自動車メーカーの活動

フランス

地元でもあり第一回の1923年にシェナール&ウォルカーが総合優勝したのを含め初期には有力であった。

ロレーヌ・ディートリッシュ
1925年1926年と連覇している。
ブガッティ
1937年1939年と総合優勝している。
ドライエ
1938年総合優勝している。
DB/ボネ/マートラ
DBは戦後最初に開催された1949年から1961年までの長年休みなしで参戦し、性能指数賞を1954年1956年1959年1960年1961年と獲得している。オトモビル・ルネ・ボネ体制になってからも1963年まで継続して参戦した。この頃は総合優勝を狙える力はなかったが、さらにその後はマトラ体制になり1966年から参戦、1972年には総合優勝、その後1973年1974年と三連覇した[7]
タルボ
1950年総合優勝している。なお下記のプジョーで1992年から1993年にかけて優勝したレースチーム名は、プジョー・タルボ・スポールである。
アルピーヌルノー
1978年総合優勝している。
ロンドー
地元に育ったジャン・ロンドーは、自分の名前を冠したマシンでルマンに優勝するという夢を1980年に果たした。
プジョー
1992年1993年、2009年に総合優勝した。

イギリス

ベントレー
当初より参戦し、1924年第2回大会でフランス以外の外国車として初優勝。富裕層出身のドライバーたちは「ベントレー・ボーイズ」と呼ばれた。1927年から1930年まで4連勝し、黎明期に非常に大きな足跡を残した。2001年にはアウディグループ傘下でル・マンへ復帰し、2003年スピード8が73年ぶりの総合優勝を果たした。
ジャガー
先駆的なメカニズムを持つCタイプ1951年1953年に勝利しDタイプ1955年から1957年まで3連勝。またトム・ウォーキンショーと組んで1988年1990年に総合優勝している。
ロータス
1954年、創始者コーリン・チャップマン自らマーク9英語版で参戦し、失格となったもののその速さは国際的にロータスの名が知られるきっかけとなった[8]。参戦2回目の1956年にはイレブン英語版で1,100ccクラス優勝、総合7位入賞を果たした。1962年ロータス・23英語版を3台持ち込んだが、フロントとリアのホイールボルト数が違うことから車検不通過となり、手直しして再車検に臨むがその改造が危険であると指摘されて決勝に出場できず、これをきっかけにワークスは出場を取りやめた。1997年にエリーゼGT1で参戦。2013年にはLMP2クラスにT128(開発はコデワ)を投入した。
その他

イタリア

アルファロメオ
8C1931年から1934年まで4連覇した。
フェラーリ
創業間もない1949年に初優勝。その後、1954年1958年で勝利。1960年から1965年まで6連覇とル・マンの盟主に君臨していたが、1966年フォードの物量作戦に敗れた。1973年に撤退した。1994年からプロトタイプクラスに333SPを、GT1クラスにF40を投入したが過去の様なワークスとしての参加ではなかった。2023年には50年ぶりにル・マン24時間レースのトップカテゴリー(LMH)に復帰し、ワークスマシンとなる「499P」を投入。ここまでル・マンを5連覇していたトヨタをLMHクラス参戦初年度にもかかわらず打ち破り、ル・マン100周年の節目かつ復帰初年度で総合優勝を飾った。
ランチア
1982年にグループ6のLC1で参戦したが、ポルシェ・956の前に惨敗に終わった。1983年からグループCのLC2にて参戦し、特にポルシェワークスが欠場した1984年は注目を集めたが、この時もヨースト・レーシングに惨敗した。

ドイツ

ポルシェ
メルセデス・ベンツ
1952年に総合優勝するなど強豪であったが、1955年の大事故で撤退し、その後長らくモータースポーツ自体に参加しない時期が続いた。1985年からザウバーがメルセデス・ベンツのエンジンを使用し、1988年からワークス参戦となり、1989年には総合優勝を果たしている。
1955年は大惨事、1988年はタイヤバースト、1999年はCLRが3度宙を舞うアクシデントによって、3度もレース撤退の決断を強いられ、「西暦下2桁ぞろ目のジンクス」が囁かれた。
BMW
  • 1995年に優勝したマクラーレン・F1-GTRには、BMWモータースポーツ(BMW M)GmbH製でBMW・8シリーズ#M8のS70/2型というコードがつけられたエンジンが搭載されていた。6.1LV型12気筒DOHC48バルブで、ミッドシップにマウントされている。
  • 1999年にはル・マン24時間レース参戦用にBMWとウィリアムズがプロトタイプレーシングカーBMW・V12 LMRを共同開発。このマシンで同年、BMWとしては初のル・マン総合優勝を飾った。同年に開発していたフライホイール式KERSはその後、ポルシェ・911 GT3 Rハイブリッドや、2012年に総合優勝したアウディが投入したR18 e-tron クワトロにも提供していた。
アウディ
  • 1999年に初出場で3位入賞。その後、21世紀に入ると圧倒的なペースで優勝を重ねる一方で、参戦初年度からの様々な記録を更新し続けていることから「ル・マンの鉄人メーカー」の異名が付いている。
  • R8を開発し2000年から2002年荒聖治に日本人2人目のル・マン優勝をもたらした2004年、そして2005年に総合優勝を達成。
  • 2006年に投入したアウディ・R10 TDIは、ル・マン史上初のディーゼルエンジン搭載車による総合優勝に加え、2007年、2008年と2度目の3連覇、合わせて2004年から2008年まで5連覇を達成した。
  • 2010年には総走行距離の最長記録を更新して総合優勝し、2011年に10勝目を挙げた。2012年にはアウディ・R18 e-tron クアトロが初のハイブリッドシステム搭載車として総合優勝を達成した。
  • 2016年限りでル・マンを含むWEC及びプロトタイプレース活動からの撤退を表明。同時に達成した参戦初年度から撤退までの18年間全てに及ぶル・マンの連続表彰台入賞記録は史上初かつ前人未到の最長記録となった。

アメリカ

カニンガム
カルフォルニアの大富豪ブリッグス・カニンガムが自分の財産をつぎ込んでキャデラックのレーシングバージョンを製作し、1950年代に参戦していた。
シャパラル
テキサスの石油王ジム・ホールが個人の資産で作った自動車研究所で空力特性の良い車両を独自の方針に従って開発し、ゼネラルモーターズからエンジンやトランスミッションの支援を受けて参戦した。
フォード
1963年シェルビー・アメリカンがACカーズとエド・ヒューガスからコブラで参戦し、スターリング・モスがマネージャーを務めるACカーズが総合7位に入賞し、これをフォードが評価してGTプロジェクトに繋がった。フォードはフェラーリ買収に失敗し、フォード・GTを投入した1965年のル・マンでも惨敗、最終的にシェルビー・アメリカンの協力を得て大量にエントリーし1966年に勝利、これがアメリカ車初の勝利となった。フォードは1969年まで4連覇し撤退した。
パノス
シボレー

スイス

日本

ル・マンに初めて日本の自動車メーカーのエンジンが登場したのは、フランス、イギリス、イタリア、ドイツ、アメリカなどの先進国の主要自動車生産国としては最も遅い1970年である。マシンはリーバイス・レーシングが、シェブロンB16に、マツダ製10A型、ロータリーエンジンを搭載したものだった。

1970年代は、排気ガス規制対策やオイルショックによって自動車メーカーのレース活動が停滞しており、シグマオートモーティブ童夢などのプライベーターたちの地道な活動からル・マンへの挑戦が始まった。

1980年代以降はマツダ日産自動車トヨタ自動車本田技研工業などがワークス・準ワークスチームで参戦し、1991年にマツダが初の総合優勝を果たした。しかしマツダは1992年に撤退した。

2012年よりトヨタが再挑戦。2018年には、ついにトヨタ・ガズー・レーシング中嶋一貴が日本チーム、日本車というオールジャパンチームで総合優勝を飾った。2019年にもトヨタが2連勝し、2020年にはLMP1規定最後となる年で3連覇を果たした。2021年にはLMH規定初年度となる年でトヨタは4連覇を果たすと共に、小林可夢偉が悲願の初優勝を飾った。2022年には平川亮が初優勝を飾っている。なお(海外メーカー車を使用する)日本チームや日本人ドライバーも優勝している。

マツダ
マツダ757(1988年)
1991年に総合優勝したマツダ787B
マツダは日本勢としては最も古く1970年代からル・マン24時間レースに参戦していた。途中1984年にはアメリカ合衆国のチームがマツダ・ロータリーエンジンを積んだBFグッドリッチマツダローラを2台エントリーし、うち1台が総合10位・C2クラスでは優勝という成績を残している[9]。僚車であるもう一台のBFグッドリッチマツダローラは総合12位に入賞、マツダワークスとして参加した727Cの2台も完走を果たし、4台でダイヤモンドフォーメーションを組んでゴールした。
レギュレーションの変更に伴いロータリーエンジンが参加できるのは1990年までとなり、1990年のル・マン24時間レースマツダ・787を投入したが惨敗した。しかし1990年秋、各社の新規格プロトタイプカーの準備が整わないことから翌1991年もロータリーエンジンの出場が認められることになった。
1991年、日本のメーカーとして初めて総合優勝を果たした。優勝車両はマツダ・787B、ドライバーはジョニー・ハーバート/ベルトラン・ガショー/フォルカー・ヴァイドラー。同時に参戦していた他の2台も6位と8位に入った。なおこの年はファイナルラップ中に24時間のゴールタイムを迎えたため終了前に観客がコースになだれ込んでしまい、マツダはピットロードにてチェッカーを受けることになってしまった。更にゴール時にドライブしていたジョニー・ハーバートが脱水症状を起こし、ゴール直後に医務室に搬送されたために表彰台に姿を現さない一幕もあった。
大資本をバックに大々的に参戦してきた他の日本勢と違い、ロータリーエンジンという独自の技術とともに、長い年月をかけて地道に参戦を続けてきたマツダの総合優勝は、多くの地元観客のみならず、他の参戦ワークスチームや世界中のモータースポーツファンから大きな賞賛を浴びた[独自研究?]
このとき優勝した55号車に施されていたレナウン・チャージカラーの塗装は、スポンサーであったレナウンの当時の社長がルマン以前のマツダの戦いを目にし「こりゃ勝つのは無理だ。じゃあとにかく目立て」と指示を出し、レナウンの社内デザイナーが布地のアーガイル柄をベースに考案したものである[要出典]
この年を最後に事実上ロータリー車が締め出されるため、当初1991年をもってレースから撤退する予定であったが、優勝したために急遽レシプロエンジンの車両であるマツダ・MX-R01を開発し、1992年ディフェンディングチャンピオンとして参戦、総合4位に入賞するが、マツダの業績悪化に伴い、この年を最後に撤退した。
その後、レギュレーション改正によりロータリーエンジンが解禁されると1994年にモータースポーツ部門であるマツダスピードがRX-7GTO(FC3S)で単独参戦、久々にル・マンにロータリーサウンドを復活させ、その後はマツダスピードや寺田陽次郎率いるオートエクゼなどによってロータリーエンジン搭載マシンがル・マンを走っているが、その後撤退を余儀なくされている。
日産・R390
日産
日産の初参加は1986年ニスモからのエントリーである。前年WEC-JAPANを制覇したR85VR86Vの2台体制。R85Vが16位で完走した。
2年目以降(R87ER88C)は苦戦するが、参戦4年目の1989年、ローラと共同開発のR89Cで、日本車として初めてトップ争いに加わるが、3車ともリタイヤに終わった。
1990年には、ニッサン・モータースポーツ・ヨーロッパ(NME)からエントリーしたR90CKが日本車初のポールポジションを獲得するも、決勝ではリタイア。日本(ニスモ)からエントリーしたR90CPが予選3位、決勝5位と健闘した。
その後しばらく参戦を休止するが、1995年GTR-LMロードゴーイングバージョンベースのニスモGT-R-LMで復帰。1997年からは本格的GT-1マシンである日産・R390で参戦した。1998年には星野一義鈴木亜久里影山正彦のドライブするR390が総合3位に入賞し、純日本人ドライバーチームが初めて表彰台に上がった。この年は日産から4台がエントリーしたが、すべて10位以内で完走した。翌1999年にも日産・R391で参戦するがリタイヤ。翌2000年にもニスモがR391によるル・マン参戦を計画していたが、この頃日産のCEOに就任したカルロス・ゴーンの判断により撤退を余儀なくされている。
2015年には日産・GT-R LM NISMOで参戦したが、全車が未完走またはリタイアと言う結果に終わった。その後再度の撤退を余儀なくされている。
トヨタ・GT-One TS020(1999年)
トヨタ
トヨタが「ワークス」として参戦するようになったのは1987年からで、トヨタ・チーム・トムスからのエントリーである。翌1988年には88Cが12位で完走している。1990年には90C-Vが6位に入賞。1年の参戦中断の後1992年TS010で復帰したが、雨の中のレースでプジョーに破れ、結局総合2位にとどまった。
1994年にはサードからトヨタ94C-Vが参戦し、シフトリンケージが壊れあと一歩のところで総合優勝を逃し、総合2位、クラス優勝となった。
久々の復帰となった1998年トヨタ・チーム・ヨーロッパ(TTE)を通じて出走したTS020が圧倒的な速さを見せたが、終了30分前にリタイア。また1999年には片山右京土屋圭市鈴木利男組が1998年仕様と同型の3号車での出場ながらトップに迫る快走を見せたが、タイヤバーストに見舞われ総合2位に終わった。トヨタは2002年からのF1参戦に集中するため同年限りで参戦を休止した。
なお先述のTTEの前身はラリーチームであったオベ・アンダーソンモータースポーツであり、のちのトヨタF1の実働部隊であるトヨタ・モータースポーツ(TMG)の母体となった組織である。ル・マン参戦前はWRCにトヨタ・セリカGT-Fourやトヨタ・カローラWRCなどで参戦し、選手権を制覇している。
2012年にはハイブリッドカーTS030 HYBRIDで13年振りにル・マン復帰。2台で参戦し予選で3位になり、決勝でもトップ争いを繰り広げたものの、1台は周回遅れの車と絡んでクラッシュ、残る1台もトラブルでリタイアした。2013年には、決勝で2位に入賞。新モデルのTS040 HYBRIDで臨んだ2014年では、予選で7号車の中嶋一貴日本人初ポールポジションを獲得、中嶋は本選途中リタイアだったがもう1台の8号車が決勝では3位に入賞した[10][11]2015年も参戦したもののライバルにスタートから終始圧倒され続けてしまい、完走したものの2台とも表彰台に昇ることはできなかった。2016年はマシンをTS050 HYBRIDへ変更し、ポルシェと最後まで競り合い初の総合優勝がほぼ確実と思われた終盤残り3分、トップを走っていた5号車がマシントラブルによりストップしポルシェに逆転を許した[12]。なお残った6号車が2位でチェッカーを受けている[13]
トヨタ・TS050 HYBRID 8号車
東京オートサロン2019にて)
2018年はTS050 HYBRID 8号車のセバスチャン・ブエミ、中嶋一貴、フェルナンド・アロンソ組が悲願の初優勝を飾った。8号車はポールポジションからスタートを切り、ポールトゥーウィンの快挙を果たした。2位にもTS050 HYBRID 7号車のマイク・コンウェイ、小林可夢偉、ホセ・マリア・ロペス組が入った。途中7号車の小林がピットインのタイミングを忘れ一時燃料に懸念が生じセーフティモード走行で意図的にスローダウンせざるを得なかったなど人為的ミスはあったものの、8号車と7号車は最前列スタートから一度もトップ2を譲らないレース運びで、ル・マン24時間レース完全制覇を果たした。日本人が運転する日本車が優勝したのは史上初。
2019年、途中トップを快走していた7号車がパンクし失速した。その他もトラブルに見舞われる過酷なレースになったが、中嶋一貴とフェルナンド・アロンソらの8号車が優勝、小林可夢偉らの7号車が2位に入り2年連続のワンツーフィニッシュを飾った[14]
2020年新型コロナウイルスの影響で無観客開催となった中、セバスチャン・ブエミ、中嶋一貴、ブレンドン・ハートレイ組の8号車が3連覇を果たした。
2021年は2年ぶりに有観客開催となり、新規定のLMH車両・GR010 HYBRIDを投入。序盤の接触やトラブルに苦戦しつつも着実なレース運びでワンツーフィニッシュを飾りトヨタとして4連覇を果たした。また、7号車のマイク・コンウェイ、小林可夢偉、ホセ・マリア・ロペス組が初優勝を飾り、セバスチャン・ブエミ、中嶋一貴、ブレンドン・ハートレイの8号車が2位となった。
NSXル・マンレーサー
ホンダ
1994年からホンダNSX GTにより参戦を始めた。初年度はクレマーレーシングとのタイアップにより3台が参戦し、数多くのトラブルに見舞われ下位に沈むも、全車完走を果たした。
2年目の1995年はTCPエンジニアリングが製作したGT1を3台(ターボ車両2台及びNA車両1台)、GT2を2台(チーム国光及び中嶋企画)エントリーさせたが、GT1ターボ車両と中嶋企画とがアクシデントにより予備予選を通過できなかった。ターボ車の一台に至っては、原因不明のトラブルでコースに出ることすらできずに予備予選落ちとなった。後に分解して調査した結果、カウルが電気系統のハーネスを挟み込んでいたために起きた断線が原因であることが判明している。中嶋企画はタイムアタックがうまく行かず好タイムを出せないでいたところに、ピットアウト時にオフィシャルが突然マシンの前に飛び出して撥ねてしまうというアクシデントに見舞われた。幸いオフィシャルは軽傷で済んだが、このためフロントウインドウを大破し、その補修に手間取るうちにタイムアタックの機会を失い、予備予選の時間が終了となってしまった。チーム側はこれを不服として嘆願書を提出して抗議したが、再度のタイムアタックは受理されず、結局決勝進出は果たせなかった(後の十勝24時間レース鈴鹿1000kmでもチーム国光とは全く明暗が分かれることとなる)。
決勝レースでは、GT1クラスのターボ車が序盤にリタイア、NA車が深夜にクラッシュし、修復したものの義務周回数不足となり完走扱いとならなかったが、悪天候の中を果敢に攻めたノバ・エンジニアリングメンテナンスのチーム国光(高橋国光/土屋圭市/飯田章組)がGT2クラスでクラス優勝を果たした。GT1クラスのターボエンジン車はル・マンの後に鈴鹿サーキットでテストを行っているが、それ以降姿を消しており、ワークスチームであるGT1クラスの参戦はこの年限りで終了した。
1996年はGT2クラスにチーム国光1台のみが参戦したが、ライバルの進歩が上回りクラス3位に終わった。結局この年を最後に、ホンダのル・マン24時間レースへの参戦は幕を閉じている。

注釈

  1. ^ 「ル・マン24時間(24 Heures du Mans)」に改称されたのは1937年からである。
  2. ^ ピットのガレージを拡張したため、2016年より最大59台。
  3. ^ ラリーヒルクライム競技等から徐々に緩和された。完全に解禁する法案が2007年6月に下院を通過したが、上院で否決され2009年に撤回された。
  4. ^ 2013年以降。J SPORTSが放送開始した2012年はゴールまでの4時間だったため合計12時間、また2015年は直前に野球中継オリックス阪神」戦が放送された関係でゴールは5時間だった。
  5. ^ 主にスタートを担当したアナウンサーは日曜午後の放送とゴールの放送を担当し、中断から朝4 - 5時までのパート2 - 3は別のアナウンサーが担当する傾向にあった。

出典

  1. ^ Which teams have already been invited to compete in the 2024 24 Hours of Le Mans?” (英語). 24h-lemans.com. ACO (2023年10月22日). 2023年11月30日閲覧。
  2. ^ How many competitors will be invited to the 24 Hours of Le Mans 2024?” (英語). Endurance Info (2023年8月10日). 2023年11月30日閲覧。
  3. ^ 両手両足を失って、彼は「ル・マン」に挑み、見事に完走した”. WIRED (2016年6月20日). 2017年4月17日閲覧。
  4. ^ 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.40、グランプリ出版。
  5. ^ 二玄社刊・世界の自動車「メルセデス・ベンツ」戦後編
  6. ^ 『死のレース 1955年 ルマン』p.214。
  7. ^ 『世界の自動車-11 シムカ マートラ アルピーヌ その他』p.42。
  8. ^ 『ワールドカーガイド8ロータス』p.131。
  9. ^ マツダ公式サイト内の、同年C2クラスで優勝したBFグッドリッチマツダローラT616
  10. ^ トヨタ、ル・マン24時間レース3位入賞も「結果は厳粛に受け止めなければ」
  11. ^ 【ル・マン24時間2014】中嶋一貴選手がル・マン初の日本人ポールポジションを獲得!
  12. ^ トヨタ初勝利の夢、残り3分で破れる。ル・マン24時間はポルシェ2号車が大逆転勝利
  13. ^ 当の5号車はのちにチェッカーを受け、周回数では2位ではあるが最終周回にかかった時間が規定(首位でチェッカーフラッグを受けた車両より6分以内にチェッカーフラッグを受けた車両を完走扱いとするルールが存在する)を超えたため完走扱いになっておらず、失格またはリタイア扱いとなる。この時はリタイアの届出を行わなかったため規定違反で失格となった。
  14. ^ [2019.6.17中日新聞朝刊]
  15. ^ 元WGPライダーの青木拓磨が2020年のWECル・マン24時間レースに出場,autosport web,2018年10月10日
  16. ^ 「障害あっても夢はかなう」 車いすレーサーの青木拓磨がルマン24時間に初参戦 青木3兄弟の次男,上毛新聞,2021年8月21日
  17. ^ 【決勝結果】2021年WEC第4戦・第89回ル・マン24時間レース/7号車トヨタが総合優勝 | ル・マン/WEC | autosport web”. AUTO SPORT web (2021年8月22日). 2022年5月22日閲覧。
  18. ^ D’station Racing、ル・マン24時間は目標の完走果たしクラス6位「本当に素晴らしい結果」と藤井誠暢”. jp.motorsport.com. 2022年5月22日閲覧。
  19. ^ D'station Racing、2022年のWEC/アジアン・ル・マン参戦体制を発表。初年度以上の結果目指す | ル・マン/WEC | autosport web”. AUTO SPORT web (2022年1月12日). 2022年5月22日閲覧。
  20. ^ 最後の最後まで何が起こるのか分からない…24時間筋書きのないドラマ「ル・マン24時間レース」J SPORTSで初の完全中継が決定!”. J SPORTS (2017年6月2日). 2017年6月13日閲覧。
  21. ^ 川喜田研 (2016年6月20日). “トヨタの悲願達成ならず。中嶋一貴が語ったル・マン24時間のラスト3分”. web Sportiva. 2017年4月15日閲覧。






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