ル・マン24時間レース コース全長の変遷

ル・マン24時間レース

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/18 09:49 UTC 版)

コース全長の変遷

  • A (1923年 - )17.262km - 現テルトルルージュ付近に向かわず、ル・マン市内中心部まで行き引き返すコースだった。
  • B (1929年 - )16.340km
  • C (1932年 - )13.492km - テルトルルージュ→ユノディエールへと続く現コースの原型になった。
  • D (1956年 - )13.461km - 1955年の大事故を受けピット前ストレートのスタンドを後退させた。
  • E (1968年 - )13.469km
  • F (1972年 - )13.640km
  • G (1979年 - )13.626km
  • H (1986年13.528km - ミュルサンヌコーナーの交差点が十字からロータリーに変更されたため、ロータリーを避ける専用コースでショートカットしている。
  • I (1987年 - )13.535km - ダンロップコーナー前にシケインが設置された。
  • J (1990年 - )13.600km - ユノディエールに2か所のシケインが設置された。
  • K (1997年 - )13.605km - ダンロップシケインのレイアウトを変更した。
  • L (2002年 - )13.650km - ダンロップブリッジ下からS字までレイアウトを変更した。
  • M (2006年)13.650km - ダンロップシケイン付近を改修した。
  • N (2007年 - )13.629km - テルトルルージュ付近を改修した。
  • O (2018年 - )13.626km - ポルシェカーブ付近を改修した。

優勝車/優勝者

メーカー別勝利数

ポルシェ・956(1983年)
ベントレー・スピード4 1/2(1928年)

特筆的な出来事

一人で24時間に挑戦

ピエール・ルヴェーは1952年にタルボ=ラーゴで出走し、23時間に渡ってステアリングを握りトップを走り続けたが、疲労のためギアを入れ間違えてエンジンを壊しリタイアとなった[3]。現在は危険防止のためレギュレーションが変更されており、このような長時間連続運転はできない。

これにより、たなぼた的に優勝(総合1・2位)を果たしたメルセデス・ベンツであったが[4]、メルセデスのチーム監督であったアルフレート・ノイバウアーは、その後ルヴェーをメルセデス・ベンツチームへ招聘し、1955年に実現する。

1955年の事故

1955年に発生し、多数の死傷者を出したこの事故は、モータースポーツ界に大きな影響を与えたのみならず、事故の当事者となった自動車メーカーのその後の経営にも大きな影響を与えることになった。

メルセデス・ベンツ・300 SLR(同型車)
ジャガー・Dタイプ(同型車)

1955年6月11日18時28分、トップを走っていたジャガーマイク・ホーソーンが周回遅れのオースチン・ヒーレーを抜いた直後に急減速してピットインした。後続オースチン・ヒーレーのドライバー、ランス・マクリンが追突を避けようと進路変更したところへメルセデス・ベンツを運転するピエール・ルヴェー(先述)が避けきれずに衝突し乗り上げ、空中へ飛び上がった。

ルヴェーのメルセデスはグランドスタンド側壁に衝突し車体は分解し炎上、衝撃でエンジンとサスペンションがそのままの勢いで観客席に飛び込み、観客・スタッフ、そしてルヴェーも含めて86人が死亡、約200人が重軽傷という大事故となった(当時のサーキットにはピットとコースを遮るピットウォールが存在せず、またピットロードも存在していなかった。これはサルト・サーキットに於いても例外ではなく、ピット前での接触事故は高頻度で起きていたとされる)。

なお、このレースは事故後も続行された。「たとえどんな惨事が起きようとも、戦い続けるのがスポーツのルールである」ことが続行の理由であった他、レースを中断すると帰路についた観客がサーキットの周りや周辺道路を塞ぎ救急車が動けなくなる、といった事態を防ぐための主催者側の判断によるものであった[5]。皮肉にも優勝者は大惨事のきっかけとなったマイク・ホーソーンであった。

この事故の映像は、映画『グレート・ドライバー(原題"Fangio")』等で観ることができる。またルヴェーのチームメイトで当時彼の後方を走行、コクピットからその一部始終を目撃したファン・マヌエル・ファンジオは、この映画の中で「ホーソーンのピットインが物議を醸したが、ピット手前360mからの減速でルール上問題はなかった。マクリンがホーソーンを左側から追い越し、さらに別の1台(カール・クリングのメルセデス)がコース左側からピットに向かって進路を右に変えた結果、ルヴェーが行き場を失い悲劇を招いた。自分は奇跡的に無傷で現場を通過出来たが、背後は地獄だった‥」と、いわゆる「レーシングアクシデント(特定のドライバーの責任に帰しないレース中のアクシデント)」であったことを模型を用いて解説している。ちなみに事故後の調査でファンジオの乗ったメルセデスの車体にホーソーンの乗ったジャガーの塗装がこびり付いていたことでごく僅かに接触していたことが判明し、ファンジオが突然ピットインしたホーソーンのマシンを辛うじて回避できたことを証明している。

メルセデス・ベンツチームはトップを走行していたが、事故発生の7時間半後、全マシンを呼び戻すと、そのまま棄権した。そして事故の一部始終を目の当たりにしたファンジオはその多大な精神的ショックから、それ以来生涯ル・マン24時間レースに姿を見せることはなかった。事故の10分後には大破したマシンの残骸をメルセデスのスタッフが必死になって回収していたことが確認され、これに関して後に「ニトロメタンなど特殊な添加剤を用いていたのではないか」と(事故の原因とはならない)規定違反を疑う声があったが、これについてメルセデスのファンジオは「あんな素晴らしい車にそんなものいらないよ」と笑い飛ばし、アルトゥル・ケザーは「燃料噴射システムの秘密を知られないため」という趣旨の発言をしている[6]

「モータースポーツの安全性」という点に大きな疑問を投げかけたこの事故の影響は非常に大きく、後に開かれる予定だったスペインと西ドイツのグランプリレースは中止、フランス・イタリアでも政府の許可が出るまでモータースポーツは開催されず、スイスに至ってはレースそのものが禁止された[注釈 3]など全世界に大きな影響を残している。

F1も例外ではなく、1955年は主催者がキャンセルするなどして3戦も中止になっているが、その後のモータースポーツ全体での安全性向上の礎にもなっている。メルセデス・ベンツ自体も、1985年のル・マン24時間レースザウバー・C8にて復帰するまで、実に30年に渡りル・マンひいてはモータースポーツから姿を消すこととなった。

なおこの事故の詳細を記した書籍として『死のレース 1955年 ルマン』が存在する。事故から20年後に事故の当事者の一人であるランス・マクリンが著者に電話で初めて明かした事実の他に、写真や関係者の証言を含めた事故の詳細、当事者であるマクリン、ホーソーン、ジャガーそれぞれの人物像やレース後のそれぞれの動向が著されている。

1999年のレースに於いてもメルセデス・ベンツは、前年たった2時間で全滅した屈辱を晴らすために投入したAMGメルセデスCLRが、予選、フリー走行、そして決勝と3度に渡って宙を舞う事態に見舞われ、「1955年の悪夢再びか」と騒がれた。明らかにマシンの空力上の問題点から起きた事故であることから、これ以上の走行は危険と判断され、この時もメルセデスはそのままル・マンから去った。

事故の当事者の1人であったランス・マクリンは、その後モータースポーツの世界を離れてカーディーラー経営者となったが、2002年にこの世を去っている。

フェラーリとフォード

フェラーリ・250LM(1965年)
フォード・GT40Mk2(1966年)

1960年-1963年のル・マン24時間レースに連勝するなど、1960年代初頭のスポーツカー・レースで最強の座に君臨していたフェラーリは、モータースポーツへの過剰投資や、当時イタリア北部で勢力を増していたイタリア共産党などの左翼政党が後援した労使紛争とそれがもたらしたストライキ、さらにフェラーリの妻のラウラによる現場への介入により、1961年11月にはカルロ・キティら主要メンバーによるクーデターが勃発し、キティやジオット・ビッザリーニら役員8名が去るなどの事件が起きたことも影響し経営が苦境に陥った。

その後1963年に、スポーツカーレースでの活躍を望んでいたヘンリー・フォード二世率いるフォードが買収することになり、マラネッロの本社で契約の直前までこぎつけた。しかし、金銭面で最終的に折り合わなかったこと、さらにモータースポーツ部門を引き続き統括したかったエンツォ・フェラーリが突如これを破棄した(なおこの背景には、フェラーリを外国の企業に渡したくなかったフィアット・グループのトップのジャンニ・アニェッリの意向も影響していたと言われる)。

これに怒ったヘンリー・フォード二世が、フェラーリを破ることを目指して、当時「モータースポーツ史上最高額」とも言われるほどの多額の投資をし「GT40」を開発し、アメリカ国内外の選手権で経験を積みつつ、1964年にル・マン24時間レースに参戦した。しかし、マウロ・フォルギエーリがル・マン向けに開発したマシン「250LM/275P」に対し、ノウハウがないフォードは苦戦し連敗を喫した。

しかしキャロル・シェルビー率いる「シェルビー・アメリカン」の助けを借りマシンを改良し、さらにフィル・ヒルやボブ・ボンデュラント、マリオ・アンドレッティやデイビット・ホッブス、ダン・ガーニーなどの経験豊富なドライバーを擁して6台もの大量エントリーをすることで1966年に初優勝を飾った。その後フェラーリはF1に集中し、以降数年間はフォードが連勝することになる。

なおその後2社ともに撤退したが、現在フェラーリはLM-GTEに参戦するプライベートチームへのマシンの提供という形で、フォードはLM-GTEにワークスとして復帰しているが、2019年で撤退した。

映画俳優の参戦

パトリック・デンプシー(2009年)
  • 映画「栄光のル・マン」で主演を務めたスティーヴ・マックイーンは、1970年のセブリング12時間レースで2位に入賞するなどレーシングドライバーとしても活躍しており、同映画でも代役を立てず実際にマシンを走らせていた。その後正式レースに出場を希望したが、周囲からの猛反対に遭って止むなく断念せざるを得なくなり、彼は生涯それを悔しがっていたという。後に息子のチャド・マックイーンが出場を果たしている。
  • ポール・ニューマン1979年2位となったが、レース中からずっとパパラッチがしつこく付いてくることに嫌気が差し、それ以降エントリーすることはなかった。
  • 近藤真彦1994年に初出場し、2002年には監督兼ドライバーとして自らのチームで参戦し、2003年には総合13位で完走を果たした。
  • パトリック・デンプシー2009年に初出場し、2013年は自らのチームで出場しLMGTE-Amクラス3位を走行し表彰台に手が届きそうだったが、惜しくも4位に終わった。2015年は、LMGTE-Amクラス2位に入賞し念願の初表彰台を獲得した。さらに富士スピードウェイで行われたFIA世界耐久選手権最終戦でクラス優勝している。

ユノディエールとその分割

ユノディエール

ユノディエールは以前6kmに及ぶ直線であり、300km/hで走っても1分以上かかった。最高速度が400km/hに近づき54秒ほどで走り切る車両が登場したが、非常に長い時間アクセルを踏みっぱなしにして猛烈なスピードで駆け抜けることになり、特に夜間は自車の前照灯だけが頼りとなる。

日本チームとして最初に参戦したシグマ・オートモーティブ(後のサード)の監督として赴いた加藤眞は走行車両を見て、マシンが悲鳴を上げているように思え、日本人ドライバーには事前に見せない方が無難ではないかという印象を持った。

WM・セカテバ・プジョーは成績よりもこのユノディエールの直線における最高速度に命をかけており、1986年に407km/hの公式記録を残している。しかし実際には計測されていないだけで400km/hを越えていたマシンが数多くあったといわれており、1989年には決勝走行中にメルセデス・ベンツのザウバー・C9が400km/hを記録した。

国際自動車スポーツ連盟(FISA、後の国際自動車連盟)は、安全性の観点から2km以上の直線を認めない旨のルールを作成し、ユノディエールを分割するよう圧力をかけた。フランス西部自動車クラブはこれこそル・マンの特徴であると主張し1989年はスポーツカーシリーズから外れて対抗したが、FISAは命令に従わなければ国際格式レースとして認めない旨を通告した。そのままではフランス国外からの参加ができなくなるためシケインを2つ挿入するコース改修がなされたが、工事完成は1990年のレース直前となり、2ヶ月前にFISAのコース査察を受けなければならなかったため、1990年もスポーツカーシリーズからは外れることとなった。




注釈

  1. ^ 日本では「サルテ・サーキット」と表記されることが多いが、「サルト・サーキット」がよりフランス語発音に近いカタカナ表記とされている。
  2. ^ ピットのガレージを拡張したため、2016年より最大59台。
  3. ^ ラリーヒルクライム競技等から徐々に緩和された。完全に解禁する法案が2007年6月に下院を通過したが、上院で否決され2009年に撤回された。
  4. ^ 2013年以降。J SPORTSが放送開始した2012年はゴールまでの4時間だったため合計12時間、また2015年は直前に野球中継オリックス阪神」戦が放送された関係でゴールは5時間だった。
  5. ^ 主にスタートを担当したアナウンサーは日曜午後の放送とゴールの放送を担当し、中断から朝4 - 5時までのパート2 - 3は別のアナウンサーが担当する傾向にあった。

出典

  1. ^ 川喜田研 (2016年6月20日). “トヨタの悲願達成ならず。中嶋一貴が語ったル・マン24時間のラスト3分”. web Sportiva. 2017年4月15日閲覧。
  2. ^ 両手両足を失って、彼は「ル・マン」に挑み、見事に完走した”. WIRED (2016年6月20日). 2017年4月17日閲覧。
  3. ^ 『ルマン 伝統と日本チームの戦い』p.40、グランプリ出版。
  4. ^ 1952年のル・マン24時間(英語版)
  5. ^ 二玄社刊・世界の自動車「メルセデス・ベンツ」戦後編
  6. ^ 『死のレース 1955年 ルマン』p.214。
  7. ^ 『世界の自動車-11 シムカ マートラ アルピーヌ その他』p.42。
  8. ^ 『ワールドカーガイド8ロータス』p.131。
  9. ^ "フェラーリが2015年ル・マンへ? WECプロトタイプ参戦計画". Topnews.(2013年8月2日)2013年11月14日閲覧。
  10. ^ マツダ公式サイト内の、同年C2クラスで優勝したBFグッドリッチマツダローラT616
  11. ^ トヨタ、ル・マン24時間レース3位入賞も「結果は厳粛に受け止めなければ」
  12. ^ 【ル・マン24時間2014】中嶋一貴選手がル・マン初の日本人ポールポジションを獲得!
  13. ^ トヨタ初勝利の夢、残り3分で破れる。ル・マン24時間はポルシェ2号車が大逆転勝利
  14. ^ 当の5号車はのちにチェッカーを受け、周回数では2位ではあるが最終周回にかかった時間が規定を超えたため完走扱いになっていない。
  15. ^ [2019.6.17中日新聞朝刊]
  16. ^ 最後の最後まで何が起こるのか分からない…24時間筋書きのないドラマ「ル・マン24時間レース」J SPORTSで初の完全中継が決定!”. J SPORTS (2017年6月2日). 2017年6月13日閲覧。





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