ひょう【評】
読み方:ひょう
[音]ヒョウ(ヒャウ)(慣)
1 物のよしあしをはかる。品定めをする。「評価・評議・評者・評釈・評定・評伝・評判・評論/合評・月評・講評・酷評・書評・寸評・選評・総評・批評・品評・論評」
2 評価。評判。うわさ。「悪評・好評・世評・定評・不評・風評・下馬評」
[名のり]ただ
ひょう〔ヒヤウ〕【評】
評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/22 10:27 UTC 版)
評(こおり、ひょう)とは、古代朝鮮および古代日本での行政区域の単位である。日本では7世紀後半に各地で置かれたが、701年以降は「郡」に改められた。
注釈
- ^ 名称不明の六人部連系図に記載。
出典
- ^ 昭和42年(1967年)12月、藤原京の北面外濠から「己亥年十月上捄国阿波評松里□」(己亥年は西暦699年)と書かれた木簡が掘り出された。これにより、それまでの郡評論争に決着が付けられたとともに、改新の詔の文書は『日本書紀』を編纂した奈良時代に書き替えられたことが明白になった。「藤原京出土の木簡が、郡評論争を決着させる」木下正史著『藤原京』中央公論新社 2003年 64ページ
- ^ 伊勢神宮の維持・運営担当者が伊勢大神宮司で、その官吏としての前身は、「神庤」(かんだち)と呼ばれていた。それが孝徳天皇の時代に「御厨」(みくりや)と改められたという。神郡行政の拠点的施設を御厨と呼んだ。伊勢皇太神宮(内宮)の起源・組織・祭祀」などを記した書。延暦23年(804年)撰。永原慶二監修石上英一他編『岩波日本歴史辞典』岩波書店 1999年 同項から
- ^ 「難波朝廷(孝徳朝)が天下に評を立てられたとき、(この地域では)まず10郷を分け、度会の山田原に「屯倉を立て、新家連阿久多(にいのみのむらじあくた)と磯連牟良(いそのむらじむろ)をそれぞれ督領と助督とした。また残る10郷をもって、竹村に同じく「屯倉」を立て、麻続連広背(おえのむらじ ひろせ)を督領に、磯部真夜手(いそべの まやて)をじょとくにつけた。」という記事は度会・多岐両評の創設の事情を述べると同時に、孝徳朝における全国的な立評の実施を語っている。駒田利治「古代の伊勢・伊賀・志摩」 稲本紀昭・駒田利治・勝山清次・飯田良一・上野秀治・西川洋『三重県の歴史』山川出版社 2000年 42ページ
- ^ 「尾張氏」『諸系譜』
- ^ 「千家北島両家」『諸系譜』第二冊
- ^ 『静岡県史 資料編 古代』
- ^ 新井白石『東雅』1717年。 巻3・郡 「郡をコホリといひしは韓国の言に出しなり。即今も朝鮮の俗、郡をも県をも并にコホルといふは即コホリの転語なり。」
- ^ 本居宣長『古事記伝』1798年。"許富理と云は古よりありし名には非ず。新井氏云く『こほりは韓語より出たり』と云り。『今の朝鮮語に郡県をこほると云』と云り。此説さもあるべし。書紀継体の巻に韓国の地名に熊備己富里また背評と云あり。評は彼国の方言にて郡を云。故コホリと訓り。漢籍梁史にも『新羅俗、其邑在内曰啄評』と云ることあり。"。
- ^ 白鳥庫吉「朝鮮古代諸国名称考」『史学雑誌』第6.7号、1895年。
- ^ 金沢庄三郎「郡村の語原に就いて」『国語の研究』同文館、1910年、95-102頁。
- ^ 日本書紀研究会編『日本書紀研究 第28冊』(塙書房、2013年)
- ^ 松田猛・関口功一「国分寺のいらか 1 上野国の誕生」西垣晴次・山本隆志・丑木幸男編『群馬県の歴史』山川出版社 2003年11月 34ページ
- ^ 大日方克己「古代国家の展開と出雲・石見・隠岐三国」 松尾寿・田中義昭・渡辺貞幸・大日方克己・井上寛司・竹永三男『島根県の歴史』2005年 87ページの表
- ^ 倉住靖彦「古代の防長地方」 小川国治編『山口県の歴史』山川出版社 1998年 66ページ
- ^ 寺内浩「古代国家と伊予国」 内田九州男・寺内浩・川岡勉・矢野達雄『愛媛県の歴史』山川出版社 2003年 42ページ
- ^ 吉村武彦「古代の房総 3律令制国家の時代」 石井進・宇野俊一『千葉県の歴史』山川出版社 2000年7月 37ページ
- ^ 永山修一「隼人と南島の世界 2律令国家と隼人・南島」 原口泉・永山修一・日隈正守・長尾千歳・皆村武一『鹿児島県の歴史』2002年2月 42-43ページ
- ^ 福島好和『大和王権の進出と展開』3「内なる国と外なる国」 今井修平・小林基伸・鈴木正幸・野田泰三・福島好和・三浦俊明・元木泰雄『兵庫県の歴史』山川出版社 2004年8月65ページ
- ^ a b c 仁藤敦史 (2001年3月). “額田部氏の系譜と職掌” (PDF). 国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリ. 国立歴史民俗博物館. 2024年2月17日閲覧。
- ^ “安宿郡の古墳と寺院~3~”. 柏原市公式ホームページ. 柏原市文化財課 (2019年4月19日). 2024年2月2日閲覧。
- ^ “2003年出土の木簡” (PDF). 奈良文化財研究所. 2023年12月31日閲覧。
- ^ a b “飛鳥·藤原宮発掘調査概報8” (PDF). 奈良文化財研究所. 2023年12月31日閲覧。
- ^ “无射志国荏原評銘文字瓦”. 川崎市ホームページ. 川崎市教育委員会 (2023年12月15日). 2024年2月1日閲覧。
- ^ “石川県埋蔵文化財情報 第38号” (PDF). 石川県埋蔵文化財センター (2017年12月). 2024年2月1日閲覧。
- ^ “阿恵官衙遺跡(あえかんがいせき)”. 粕屋町公式ホームページ. 粕屋町教育委員会事務局社会教育課文化財係 (2020年3月10日). 2024年2月1日閲覧。
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- ^ a b “「大宰府の七世紀史」覚書” (PDF). 太宰府市ホームページ. 2024年2月1日閲覧。
評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 23:36 UTC 版)
「楢山節考 (1983年の映画)」の記事における「評」の解説
第36回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞直後の『楢山節考』評は以下の通り。 カンヌの上映会場でフランス人と一緒に『楢山節考』を観た高野悦子は『楢山節考』の逆転グランプリについて、「大島さんはいい作品で当然、今村さんは新しい人だから、フランス人にはショッキングな発見だったんでしょう。『楢山節考』にはセックスシーンがたくさん出てきますが、それが実にいいんです。セックスシーンがとってもおかしくてみんな笑うんです。でもそれがだんだんしんみりしてくるんです。左とん平さんが清川虹子さんとやるところなんか、もうみんな感動してました」などと評している。また海外で顔に広い川喜多かしこも「"戦メリ"は何ヶ国かの資金で製作され多国籍映画だけれど、『楢山節考』は日本プロパーの映画であることをお忘れなく」とアピールしてくれたという。1983年5月15日、『楢山節考』上映後に割れるような拍手が起き、以降、共産党系の『リュマニテ』から、右派の『フィガロ』、『ル・パリジャン』、『リベラシオン』まで、フランスのマスメディアの多くが称賛し、急にダークホースと評価が上がった。ロベール・ブレッソン監督の『ラルジャン』とアンドレイ・タルコフスキー監督の『ノスタルジア』が有力との声もあったが、最終的には『楢山節考』『戦場のメリークリスマス』の争いといわれた。日本の監督同士が賞を争って激突するのは初めてだった。大島サイドが派手に行動したのが反感を買ったため、欠席した今村に対して批判の声は上がらず「精神の自立のあらわれ」などと評された。監督不参加のグランプリは史上初だった。 "戦メリ"組の応援団として、自費でカンヌに乗り込んだおすぎとピーコのおすぎは取り乱し「映画評論家としては日本映画が取れたのはうれしいけど、おすぎ個人としては、もう悔しいのよネ。日本映画ブームの下敷きをつくったのは大島さんでしょ。それがトンビに油揚げさらわれちゃったのよ。もうアタシなんか泣いちゃって、大島さんの顔見るとまた涙が出てきちゃいそうよ。あんな土俗派に負けちゃったんですもの」と話した。 坂本龍一は「東西の文化の無理解というのが『戦場のメリークリスマス』のテーマでしょ。『楢山節考』がグランプリ取ったのは、その無理解を象徴してるよね。彼ら西洋人が”あれかし”と思っている日本の姿があの映画の中にはあるもの。いい映画か、悪い映画かは別にしてね」などと論じた。 大島渚は「賞はいわばひとつの手段で、目的はいかに多くの世界中の人に見てもらえるかなの。カンヌの最中にアメリカのメジャー・ユニバーサルに売れました。これはすごいことです。大勝利です。世界で40ヵ国以上に売れた。こんな国際的映画になったのは日本映画で初めてです」などと話した。帰国後すぐの青島幸男との対談では「結果論になっちゃうけど"戦メリ"は初めから終いまで騒がれ過ぎたんですね。それからデヴィッド・ボウイが映画に出て、なおかつカンヌに来ているというのは、ヨーロッパでは物凄いことなんだね。彼は普通の映画スターとは格が違うスーパースターなんだよね。そのデヴィッドが初めて大島という日本人が作る映画に出たということで記者会見なんかも異様な盛り上がりでね。あまり前評判が高いんで、審査員なんかも、ちょっと盛り上がり過ぎじゃないかという感じるんだな。それにユニバーサルに売れたのが、向こうの業界誌なんかにデカデカ載ったりしたもんだから、審査員としては面白くなかったんじゃないかな。『いったい誰が賞を決めるんだ』みたいな。評判が上がり過ぎて損をした、というのが実感なんだよね。それに古い感覚のヨーロッパやアメリカ人の審査員にとっては"戦メリ"はあり得べき日本映画の姿とは違う異質なものに思えたと思う。ちょっと飛んじゃったと言うか、彼らが考える日本映画の水準を外れちゃったんで、びっくりしたんじゃないかな。まあこれは僕の主観ですけど」などと述べた。 日本の映画関係者の中には「作品の質からいえば"戦メリ"の方が上だと思うけど、正直なところ今村がグランプリでほっとしています。監督協会会長のあのコックローチSの先生(当時のCM)が、これ以上カリスマ的な力を強くしたらたまらないですから」と話す人もいた。 その他の評 原作者の深沢七郎は試写を見て「よかったね。ありゃ前衛だよ。映画ってもんに対する考え方があれ一本で変わっちゃったね。オレはなにしろ、埼玉来て映画見たのは『エルビス・オン・ステージ』1回きり。映画ってのは消費的なもんだと思っていたから(笑)。でも今度のはビックリした。脱帽だよ。緒形拳もよかったね。ベッドシーンは見ものだった。あき竹城とベッコンベッコンやるところ(笑)。ベッドシーンやる緒形拳は初めて見たよ」などと評した。
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評
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「ニシボリック・サスペンション」の記事における「評」の解説
ニシボリックサスはその狙いから考えると未完成なまま市販された[要出典]様で、致命的とも言える幾つかの欠点があった[要出典]。それが評論家や初期オーナの酷評[要出典]へとつながったと思われる[誰によって?]。 またニシボリックサス自体の開発車両がクーペ(ジオ・ストーム)だったとの情報もあり、前後の重量配分の異なるセダンへそのまま流用したことが未完成との評価につながったとの説もある。つまりJT760の総販売台数中の大多数を占めるセダンと販売台数の少ないクーペでは、4WSの効果の違いがでる可能性も存在する。[要出典] JT760発売当時、モーターファン誌(巻号は?)が、ヨーイング共振周波数のレベルが余り高くない事を指摘、いすゞ自動車にて再度計測し直すといった事があった。その後の経緯は今日に至るまで発表されていないが、モーターファン誌のデータ計測は、車両運動研究に於いて学会(自動車技術会)で有名な某大学教授[誰?]監修の元に実施されており、信憑性が高いと考えられる[誰によって?]。 さまざまな4WSが登場する以前のサスペンション研究で、ヨーイングは前輪で発生/後輪で収斂させるのが好ましいという事が判っていた[要出典]。つまりヨーイングは決して後輪で出してはいけないという事であり、実際にJT760の前のジェミニであるJT750の最終年次変更では、後輪のネガティブキャンバとトーインを強めたチューニングが施されている[要出典]。明らかに[誰によって?]後輪によるヨーイングの収斂を狙った変更であった。このチューニングを施したいすゞ自動車が、次世代車にニシボリックサスを装着したのは理解に苦しむ[誰が?]。 ベストカーによる3代目ジェミニのレビューでは、ニシボリック・サスについて「コーナリング開始時車両のロールによって最初は逆位相に動いていた後輪が、ロール角が深くなると同位相に動いていく」構造と解釈しており、「理論の上ではターンインでスッと曲がり定常旋回ではスタビリティが高まるはず」としながらも、実際には「定常旋回に入っても逆位相が継続する傾向が強く、運転感覚としてはオーバーステアが強く感じられるものだった。」との評が成されている。 モーター・トレンド(英語版)による1991年式いすゞ・インパルスRS ハンドリングbyロータスのレビューでは、ニシボリック・サスについて「レーストラックでの走行はとても面白いが、スラローム(英語版)でのテストは単に難易度が高いだけでなく、オーバー・ステアとアンダー・ステアが奇妙に混在する特性により、テストドライバーをしばしば混乱させることとなった。」との評が成されている。 米国のジオ・ストームのオーナズクラブの評では、ニシボリック・サスについて「凹凸の多い路面、傾斜した路面、横風の強い状況下で、車体が左右に細かく揺れ動くような感覚を感じることがある。従って、長い直線道では直進状態を維持する為に他の車より多くの舵角修正や集中力を必要とする場合があり、州間高速道路で長時間運転する際の疲労を増大させる可能性がある」と指摘しており、「車体の挙動変化に非常に敏感なドライバーの場合、ニシボリック・サスは直線走行下ではステアリングの穏やかな舵角の変化にも過度に鋭敏であり、逆に急激な舵角変化に対しては却って応答が鈍くなる奇妙な感覚に苛立ちを覚えるかもしれない」とも評している。同クラブは、ニシボリック・サスはノーマルの車高を基準にトー角度が0度に設定されており、13/32インチ(約1.03cm)のダウンで後輪は最大量のトー・アウトを示し、19/32インチ(約1.5cm)のダウンで後輪はトー・インに転じ、その後はサスペンションが縮む毎に後輪のトー・インが増加し続ける事から、車高調整式サスペンションやダウンサス等で安易にローダウンしてしまうと、直進安定性や旋回性能が損なわれる危険性が高いとの見解も示しており、車高を下げる際の望ましい工程について提示している。 パッシブ4WSの代表格とされる上記のようなニシボリック・サスの動作概念は、元々はアクティブ4WSでもアクティブサスペンションとの組み合わせで実現が目指されていたものである。その主目的は前輪駆動車におけるタックインの抑止であり、アクティブサスが(アクセルオフに伴う急激なオーバー・ステアにより発生する)前軸への急激な荷重変化(車体のローリングの増大)を検知すると、アクティブ4WSが後輪の舵角を前輪と同相側に可変させる事により、タックインによる急激なリバース・ステアの発生を機構的に打ち消す事を可能としていた。 しかし、特別な機構無しにブッシュの撓みのみで上記のような複雑な動作概念を実現しようとしたことで、思わぬ副作用も発生した。ブッシュの撓み量の不安定さから、ニシボリック・サスは単に理論上通りの動作をしなかったばかりでなく、前輪駆動車でありながら定常円旋回の際には強いオーバーステア傾向を示し、コーナリング中のアクセルオフの際にはタックインが起きるのではなく、後輪駆動車のドリフト走行のようにリアがコーナー外側に流れていくという、通常の前輪駆動車では有り得ないような挙動を示したのである。
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評
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「デサント・オ・ザンファー 地獄に堕ちて」の記事における「評」の解説
「『ラ・ブーム』の父親役と裸で激しいラブシーンを演じる作品(引用注:本作のこと)もあり、そうした映画を企画する側も企画する側だが、『みんな父娘相姦みたいな目で私たちを、見たがってるのよね』と重々承知していながら、簡単に出演してしまうソフィーもソフィー。」
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評
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『三国志』魏書劉表傳 陳寿的評論 「劉表は威容は堂々としていて名は世に知れ渡り、江南に割拠した。しかし外面は寛大に見えるが、内面は猜疑心が強く、はかりごとを好みながら決断力に欠けていた。いい人物がいてもこれを用いることが出来ず、いい言葉を聴いてもこれを実行に移すことが出来なかった。長子を廃して庶子を後継に立て、死後に国を失ったことも不幸な出来事とは言えない」 なお、陳寿は袁紹と劉表を似た者と考えていたらしく、上の評をこの2人に対して送っている。曹操や孫権の後継ぎ争いでも、庶子を後継に立てることを諌めるための悪例として、袁紹と劉表はしばしば引き合いに出された。しかし史書に登場する限りで、劉表の子の劉琦・劉琮兄弟は直接兵を交えて争っていないという点で袁紹一族とは異なっている。
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評
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日本の長野豊山は宗忠簡の詩「華陰道中」七絶を愛し、「尋常詩家の及ぶところにあらざるなり」と評している。
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評
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陳寿『三国志』蜀書黄権伝の黄権評 度量が広く、思慮深かった。 楊戯『季漢輔臣賛』の黄権評 黄権の思考は鋭く、策略は素晴らしく、軍を率いて敵を追い払い、見事な功績を挙げた。 袁宏『三国名臣序賛』 蜀の四名臣として諸葛亮・龐統・蔣琬と並んで取り上げられている。 程至善(明)『史砭』の黄権評 蜀に帰還する道がなかったのなら、死ぬだけのことだ。死を免れたのは幸運だったかもしれないが、忠義とは言えない。黄権は昔の人間の敬慕するところとなっているが、今の人間は恥ずべき人物と考えるのではないか。
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評
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陳寿の評 「あるべき規範を守らず、感情に任せて行動したので、司法と行政の連携が取れず、多くの善良な人々が害を被り、これらによって生じた乱れは時を追うごとに大きくなった」 「訳も分からないままに憂いの中で死んでいった」 「州郡に拠って立ったが、凡人でもここまで酷い事にはならなかっただろう。論じるに値しない」 韋昭『呉書』の評 「陶謙の性質は剛直で、世の規範を守って行動する人物だった」 「良い面構えをしている。将来必ずや大きな成功を収めるに違いない」(甘公) 「美徳と武勇と知性を兼ね備え、性質は剛直であり、その統治は恩愛をもって行われた」(張昭)
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評
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「アンナ・カレーニナ (1997年の映画)」の記事における「評」の解説
アンナとヴロンスキーの道ならぬ恋、レヴィンとキティの関係の2つに光をあてているのが新しい。全編ロシアのロケで、当時を彷彿とさせる映像も美しい。
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評
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「アブル・タイーブ・ムタナッビー」の記事における「評」の解説
ムタナッビーはアラブ人の誇りと伝統を重視。華美に芸術的でたくみな技法を用いて組まれる称讃詩や誹謗詩を中心に書く。それはレトリックにして仰々しく幻想的な比喩を得意とする。当時、ムタナッビーの詩はつねに物議を醸して非難されることも多かったが、後世に与えた影響は計り知れない。こんにちにおいても詩はアラブ世界で多く引用され、多くの文化人に大きく影響を与えている。 バグダード中心部の古書店街沿いにあるムタナッビー通りに名が残る。
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評
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蜀への使者を務めた呉の薛珝は、孫休に蜀の統治について尋ねられた際、「主君は暗愚で己の過ちを知らず」と評している。 『三国志』の撰者陳寿は、「賢れた宰相に任せている間は理にそった君主となったが、宦官に惑わされて昏闇の後となった。白い糸は染められるままに何色にも変ずる」(「周りの人間が有能なら善く、悪かったら駄目になるような人間である」という主旨で、これは桓公 (斉)と同じである)、「諸葛亮が補佐した12年間は改元もせず、あれほど出兵しながらも、濫りに恩赦を行う事も無かった。なかなか出来ない事だ。しかし諸葛亮が没して後、そうしたやり方も崩れていった。優劣は歴然としている」と評している。 『華陽国志』も「中興の器に非ず」と低く評価している。 なお、『晋書』「李密伝」で蜀の旧臣でもある李密は、名臣を信じて成功し、奸臣を信じて失敗した事を例に出し、劉禅を「斉の桓公に次ぐ」と述べている。 かつて劉禅の像が成都の武侯祠に存在したが、嫌悪されること甚だしく、その像は何度も破壊された(何度か再建されている)という。涿県(現在の河北省保定市涿州市)の三義宮には、「小三義殿」という場所があり、そこに、関興・張苞とともに祭られている。 結果として弱小の蜀漢を引き継いで40年間存続させた事、これを支えた功臣も何度か世代交代していること、国力を衰退させ自国を滅ぼした事、その要因となった臣を重用していた事は事実である。
※この「評」の解説は、「劉禅」の解説の一部です。
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評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:23 UTC 版)
「ザ・コーポレーション」の記事における「評」の解説
キネマ旬報社データベースは、同映画を『総勢40人の証言を基に構成された社会派ドキュメンタリー』と評し、収録されているエピソードとして郵便事業民営化問題を挙げている。
※この「評」の解説は、「ザ・コーポレーション」の解説の一部です。
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「評」の例文・使い方・用例・文例
- 辛らつな批評
- 悪い評判が立つ
- 彼の今度の小説はあまり好きじゃないな.たくさんの批評家がほめているけどね
- 彼はあなたの才能を高く評価しています
- 彼らは彼の偉大な能力を正しく評価している
- 適評
- その価値を低く評価する
- 陪審はかなりの時間をかけて評決を下した
- 評決に異議を唱える
- 彼は一家の評判を傷つけた
- 彼はその本を論評した
- 評論家たちは彼の近著を好意的に論評した
- 彼はたいしたピアニストではないと彼女は論評した
- 高く評価された絵
- 彼は評議員です
- 文芸評論家
- 彼は美術評論家として有名だ
- 評論家
- 評論
- 大好評を得る
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