日本代表監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 11:29 UTC 版)
通算20試合12勝5分3敗。2007年、AFCアジアカップで4位。 (世代交代) ドイツワールドカップ最後の競争に生き残った巻誠一郎(当時26歳)・駒野友一。競争の末選外となった阿部勇樹・佐藤寿人らを残し、国際Aマッチ0出場の鈴木啓太・田中マルクス闘莉王らを抜擢。さらに大久保嘉人・田中達也・前田遼一・山瀬功治・田中隼磨ら(当時24・25歳)アテネ五輪メンバー・候補メンバーを多く選出した。 2003 FIFAワールドユース選手権の経験がある「川島永嗣・今野泰幸・山岸智・小林大悟」(当時23歳) 。2001 FIFA U-17世界選手権・2005年トゥーロン国際大会U-21代表の「矢野貴章・藤本淳吾」(当時22歳) 。同世代の長谷部誠らを起用した。 2005 FIFAワールドユース選手権の経験がある「西川周作・水本裕貴・伊野波雅彦・水野晃樹・家長昭博・本田圭佑」(当時20・21歳) 。同世代の青山直晃らを就任当初から常に3~5人招集帯同させた。 (オール日本人スタッフ) 田嶋幸三専務理事 小野剛 技術委員長 大熊清 - A代表コーチ 加藤好男 - A代表 GKコーチ 小倉勉 A代表コーチ / U15-17代表コーチ 前田弘 A代表トレーナー 早川直樹 A代表トレーナー 和田一郎 A代表 テクニカルスタッフ 里内猛 A代表 フィジカルコーチ 反町康治 - U21-23代表監督 / A代表コーチ 吉田靖 - U18-20代表監督 城福浩 - U15-17代表監督 大熊・吉田・加藤の3人は監督・コーチとしてタッグを組み、過去2大会のU20ワールドカップを経験。「川島・ 今野」世代、「西川・本田」世代を知るスタッフで、吉田・加藤は「林彰洋・内田篤人」世代も担当した。 五輪代表コーチには反町・オシムを良く知る江尻篤彦、A代表コーチにはジェフ時代のスタッフ小倉と前田も抜擢された。 (代表戦以外での活動) スタッフミーティングやアンダー代表の視察を活発に行った。 Jリーグ監督会議・クラブ担当者会議に出席し意見を交わした。 S級コーチ養成講習会の講師を務めた (2005年・2006年・2008年) 。 2006年11月 - JFAアカデミー福島を訪問し講義を行った。 2006年12月 - 高校サッカー選手権 国見-八千代、尚志-鵬翔を観戦。 2007年1月 - 皇后杯決勝観戦。 2007年1月 - ガルフカップの現地視察。 2007年3月 - サッカー女子ワールドカップのプレーオフ観戦。 親交のあった帝京高校監督の古沼貞雄は年末の忘年会にて、オシムから高校サッカーのトーナメントの理不尽さを指摘されリーグ戦導入提案の活性化のきっかけになったという (オシムが観戦した高校サッカー2試合いずれもPK戦で決着がついた) 。 (国内合宿)代表戦のない月には国内の選手のみで短期合宿を行った。これによりほぼ毎月の代表のトレーニング期間が設けられた (土・日曜のJ1の試合後、月~水曜に大学生との練習試合などが行われた。ガンバ大阪や広島など遠方の選手はクラブに早めに帰らせるなどの配慮が取られた) 。
※この「日本代表監督」の解説は、「イビチャ・オシム」の解説の一部です。
「日本代表監督」を含む「イビチャ・オシム」の記事については、「イビチャ・オシム」の概要を参照ください。
日本代表監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 07:54 UTC 版)
「フィリップ・トルシエ」の記事における「日本代表監督」の解説
1998年9月20日、フランスワールドカップ終了後に日本代表監督に就任。契約期間は2年で、その後2年はオプション。ファルカン監督以来5年ぶり、3人目の外国人監督となった。A代表とU-21代表(98年当時)の監督を兼任。当時日本サッカー協会技術部門の長であった大仁邦彌は、ワールドカップ以後の続投を要請 していた岡田武史前監督の辞任を受け、アーセン・ベンゲルに監督就任を依頼する もアーセナルFCと既に契約していることを理由に断られる。大仁によれば、その後協会は直接フランスサッカー協会と交渉し、ちょうどスケジュールの空いていたトルシエを紹介された、という。日本サッカー協会はベンゲルに彼の能力や人物像などについて相談しつつ、トルシエと契約を結ぶことに決定した。尚、当時の日本サッカー協会会長の岡野俊一郎によれば、ベンゲルに一度断られたあと、『2002年W杯の日本代表監督は貴方しかいない』と手紙を出したが再度断られ、技術委員会がベンゲルの推薦したトルシエにしたいと言うので、ベンゲルの推薦ならということで、トルシエに決めたという。 1998年12月、バンコクアジア大会ではU-21代表を率いて臨み、二次リーグ敗退し、クウェートに勝利した。 1999年、清雲栄純の後任としてU-20代表監督を兼職(契約外のため無報酬だった)。FIFAワールドユース・ナイジェリア大会では準優勝を果たした。FIFA主催の国際大会で日本が決勝に進出するのは、史上初の快挙であった。秋には中田英寿も合流したU-22代表を率いて、2大会連続の五輪出場を決める。一方、A代表では特別招待国として参加したコパ・アメリカ(南米選手権)で2敗1分け(1次リーグ敗退)に終わる等、ほとんど実績を残せず、批判の声も現れ始めた。 2000年、五輪代表をA代表に合流させるも、2月のカールスバーグカップでメキシコに敗れると、続く香港リーグ選抜には引き分け(PK戦で一応「勝利」した)。3月は中国と引き分け、続く4月には韓国に敗戦と成績は上向かず。このため、サッカー協会幹部から解任の声が挙がり、先走った朝日新聞に至っては「トルシエ解任」と掲載するなどしたが、岡野俊一郎会長(当時)の判断で6月にモロッコで行われるハッサン二世国王杯ならびに日本国内で行われるキリン杯の成績で去就を決定することとなる。そして、迎えたハッサン二世国王杯ではほぼベストメンバーを組んできた前回W杯王者・フランスと2-2で引き分け(但し、PK戦で敗れた)、続く2戦目では前回W杯で辛酸を舐めさせられたジャマイカに4-0で大勝。帰国後の続くキリン杯ではボリビア、スロバキアと対戦し、1勝1分。スロバキアと同点優勝。4試合で2勝2分という成績を残し、事実上解任を免れた。なお川淵三郎によれば、本当は2年契約が満了した時点でベンゲルに監督を交代することが当初より決まっていたが、ベンゲル側の事情によりその話が流れたため、トルシエとの契約を延長せざるを得なかったという。 2000年9月 シドニーオリンピックではメキシコシティオリンピック以来32年ぶりとなる決勝トーナメント進出。準々決勝でアメリカ合衆国とPK戦の末、準決勝進出を逃す。2000年10月 レバノンで開催されたアジアカップ2000では、グループリーグ第1戦・第2戦で圧勝して決勝トーナメントへ。決勝トーナメントでも攻撃的なサッカーを貫きイラク、中国、サウジアラビアを撃破。1992年大会以来の、アウェイ色の強い中東開催のアジア杯において東アジア勢としては初めての優勝を果たす。2000年度のAFC年間最優秀監督を受賞する。 アジアカップで圧倒的な攻撃サッカーを見せたトルシエジャパンだったが、2001年3月24日、フランスのスタッド・ド・フランス(サン=ドニ)で行われたフランス代表との親善試合で0-5の大敗を喫すると、守備の立て直しに戸田和幸、上村健一、波戸康広などフィジカルの強い守備陣を招集。4月のスペイン戦では布陣こそフランス戦と同じ1トップ3ボランチだったが、サイドに中村俊など攻撃的な選手を配置したフランス戦と違い、本来DFの服部年宏と波戸を置く実質5バックの超守備的な布陣で臨み、終了間際に失点し0-1で敗れる。攻撃する意思が感じられない戦術に批判があがるが、トルシエは「このスペイン戦を無失点で終える事で守備の自信を取り戻させるのが目的だった」と語る。そのため、終了間際の失点で目論見が崩れたトルシエは、失点直前に負傷退場した上村を会見で批判。しかしそれでも終了間際までは無失点を続けたことを強調し自信回復に繋げると、「攻撃的なアジアカップと守備的なスペイン戦、攻守のバランスはその間にある」と語り、2001年6月 日韓共催FIFAコンフェデレーションズカップでは宣言通り、試合の相手や展開に合わせて攻守の人材や人数を変化させ、5試合で6得点1失点の戦績で準優勝を果たす。フル代表でのFIFA主催の国際大会での決勝進出は史上初。またフランスとの決勝は0-1で敗れはしたものの、2ヶ月半前に大敗した相手に惜敗を演じたことで評価も安定した。ワールドフットボールイロレーティングで、2001年8月と02年3月のトルシエジャパンは、日本史上最高の世界8位のレーティングを記録した。 2002年4月25日、ワールドカップ本戦への出場を決めていたポーランド代表とポーランドウッジで親善試合を行い、日本代表史上初となる欧州でのアウェイゲーム勝利(2-0)。2002年6月 日韓ワールドカップでは、有力視されていた中村俊輔を代表から外したことで話題を呼んだ。本大会グループリーグ初戦のベルギー戦では2-2で引き分け、続くロシア戦では1-0で勝利、最後のチュニジア戦も2-0で勝利し、通算2勝1分でグループリーグ1位の成績で突破し、日本代表を初の決勝トーナメント進出に導く。しかし決勝トーナメント1回戦トルコ戦、日本代表は0-1で敗れる。W杯終了後、監督を退任した。
※この「日本代表監督」の解説は、「フィリップ・トルシエ」の解説の一部です。
「日本代表監督」を含む「フィリップ・トルシエ」の記事については、「フィリップ・トルシエ」の概要を参照ください。
日本代表監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 20:46 UTC 版)
こうした手腕を買われ1993年、野球全日本代表コーチに就任し1996年、 アトランタオリンピックでの銀メダル獲得に貢献。翌1997年、全日本代表監督に就任。上原浩治、高橋由伸、福留孝介らを擁した第9回IBAFインターコンチネンタルカップではキューバを国際大会151連勝で止め世界一に導いた。 1998年、四カ国国際大会、ハーレム大会、IBAF世界選手権、バンコクアジア大会でも指揮を執り1999年、初のプロ・アマ混成チームの監督に就任。 2000年シドニーオリンピック本戦でも指揮を執った。 現在も全日本アマチュア野球連盟の役員などで活躍している。
※この「日本代表監督」の解説は、「大田垣耕造」の解説の一部です。
「日本代表監督」を含む「大田垣耕造」の記事については、「大田垣耕造」の概要を参照ください。
日本代表監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 07:40 UTC 版)
知的なプレーぶりは指導者向きと、長沼健ら日本サッカー協会(JFA)幹部から早くから見込まれ、引退後はJFAの指導者としてエリートコースを歩む。1979年、各競技のオリンピック・メダリストを対象にナショナル・コーチを育成しようという日本体育協会のプログラムからの助成を受けて、西ドイツにコーチ留学に送り出され、1.FCケルンのヘネス・バイスバイラー、リヌス・ミケルスらから一年間、指導法を学ぶ。1980年10月、渡辺正日本代表監督が病気で倒れたため急遽呼び戻され、予定より早く同年11月帰国、川淵三郎監督下でコーチに就任した。川淵は強化部長兼任で名目上の監督、事実上チームの指揮は森が担った。1982 FIFAワールドカップ・アジア・オセアニア予選の敗退で、翌1981年4月からは川淵の後を受け日本代表監督に就任、アマからプロへの端境期だった1980年代に一時代を築く。理論派と評され「日本の切り札」として期待はかつてないものであった。プロ化を進める日産や読売、アマにこだわる古河や三菱など出自の異なる混成軍を巧みにまとめ上げた他、既成概念にとらわれることなく、2部リーグや大学リーグにも足を運んで選手をピックアップ、これまでにない革新的なチーム作りを行った。この頃からテクニックに優れた新しい世代が台頭したこともあって、そうした選手たちを中心に、パスをつなぐ攻撃的なスタイルでロサンゼルスオリンピック予選に臨んだ。またそれまで勝利給はおろか日当さえも出なかった日本代表チームの報酬金や宿泊ホテルの改善などにも尽力した。 1980年代、日本は企業スポーツ全盛だった。いち早くプロ契約制度を導入した読売クラブなどの一部の選手を除いて、大多数は勤務する会社からの月給で生計を立てるサラリーマン。代表合宿中は、いわゆる出張。中には欠勤扱いの選手もいた。現役を辞めれば、そのまま会社勤めに入るのが当たり前の時代、副主将ながら控えで出番の少なかった岡田武史が「もう、ええですわ」と、代表には呼ばないで欲しいと言ってきたときには耳を疑ったという。戸塚哲也などは「代表でプレーすることに魅力を感じない」と公言していた。日本体育協会に加盟する一競技団体だったJFAも現在のような潤沢な運営資金はなく、代表のスタッフは、監督とコーチにドクターとマッサージ師が各一人だけ。マネージャーもおらず、監督が選手のパスポートを集めてチェックインなども行っていた。代表選手に支払われるお金は交通費のみ。森も三菱から出向中のアマの代表監督で 勿論、無報酬。読売などの契約選手がクラブから出場給や勝利給を手にする一方で、社員選手の臨時報酬といえば、海外遠征時に会社から餞別が渡される程度だった。選手間で格差があり、これでは人間的に信頼し合うことが出来ない、と森はJFAの当時の専務理事・長沼健と何度も掛け合い1982年から1日3千円の手当てが日本代表につくようになり、翌1983年からは出場した場合あるいは勝利した場合にボーナスがつく形になった。日本のライバルである韓国では1983年よりプロリーグが始まり、韓国代表選手に金銭的手当てが出るようになっていた。そのことを代表選手も知っていた為、森監督は「韓国との待遇の差を言い訳に出来ない形にしたかった」のだという。 1982年アジア競技大会ではグループリーグで韓国を初めて国外で破る他イランと南イエメンにも勝ち3戦全勝でのベスト8進出、親善試合においてオランダのフェイエノールトやブラジルのコリンチャンスの海外の強豪クラブを破る成果を見せた。当時の日本代表の親善試合の相手は海外のクラブチームと決まっていた。しかし、親善試合の大活躍で攻撃の軸と期待された尾崎加寿夫がドイツ・ブンデスリーガのビーレフェルトに移籍したのが響いた。当時は国際試合の時に海外移籍した日本人選手を呼び戻して代表入りさせるという発想はなく、尾崎や奥寺康彦などを代表に呼ぶことは出来なかった。試行錯誤の末、フォワードの軸はヘッドの強い原博実を据えて柱谷幸一と組ませて、所属クラブで攻撃的MFにコンバートされていた木村和司を司令塔に、金田喜稔(後に水沼貴史)を絡ませた日産勢を攻撃の柱にする布陣で挑むが 肝心のロサンゼルスオリンピック最終予選では連敗を重ね敗退した。当時の日本代表の情報収集能力は低く、初戦の相手、タイの試合のビデオを集めることもできず、相手チームについて何も知らずに初戦に臨み、タイのエース・ピヤポンにハットトリックを決められるなどで2-5の大敗(ピヤポン・ショック)。結局これが尾を引き4戦全敗に終わった。大会の直前にそれまでいなかったベテランを加えたことで、若手中心に団結していたチームのバランスが崩れてしまったともいわれる。 森は辞意を表明したが慰留され、1985年に開催された1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では北朝鮮代表に史上初めて勝利し、平壌金日成競技場で北朝鮮代表と"完全アウェー"を戦うなど1次予選、2次予選を突破。宮内聡と西村昭宏で、後に世界の主流になるダブルボランチをいち早く取り入れるなどで 1985年10月の最終予選に進出。当時のW杯でのアジアの出場枠は「1」(東アジアと西アジアで1枠ずつ)。この当時の代表チームは守備の加藤久、左サイドバックの都並敏史、右サイドバックの松木安太郎、中盤の木村和司、前線の原博実、水沼貴史ら、職人気質の個性派を擁し、強い結束力を持ち合わせた事から森ファミリーと呼ばれた。北朝鮮とのアウェー戦に、累積警告で出場停止だった松木安太郎を「彼もチームの一員だから」と帯同させた。感謝に震えながらボール運びなど下働きする松木を仲間は暖かく包んだ。 1985年10月26日、国立競技場での韓国代表とのアジア最終予選の初戦は、代表の試合で初めて国立が満員になった。代表戦にお客が入るようになり、サッカー協会の収入が増えてきたのはこの頃から。テレビの実況を担当したNHKアナウンサー・山本浩の「東京千駄ヶ谷の国立競技場の曇り空の向こうに、メキシコの青い空が近づいてきているような気がします」というオープニングの名台詞でも有名な試合であるが、立錐の余地もなく埋め尽くされた62000人の大観衆と、スタンドにはためく無数の日の丸、かつて体験したことのない異様な熱気は、皮肉にも日本代表イレブンに過剰なプレッシャーとなってはね返った。また、韓国代表監督の金正男は、森の大学時代からの20年来の親友でもあり、冷静に日本代表を分析していた。「日本は前後半の開始25分ぐらいまでに点を取ることが多い。だからリスクを冒すことなく30分までは守りを固めていく」と、金が韓国イレブンに与えたこの指示で、引き気味に試合を進める韓国に対して、ボール支配率で上回った日本がペースを握っているかに思われたが、それは相手に仕組まれた巧妙な罠だった。効果的な攻撃を生み出せないままに時間は過ぎ、前半30分に韓国の右からのセンタリングを石神良訓がクリアしたキックが短く、そのキックミスをつけ込まれ先制点を奪われると、韓国に対する長年のコンプレックスから選手は大きく動揺し41分、再びミスから致命的な2点目を奪われた。このゴールの直後に木村和司のフリーキックで1ゴールしたものの、1-2でホームでの敗戦を喫するとソウルでの第2戦も0-1で敗れ、ワールドカップ出場まであと一歩まで迫ったが韓国に敗れた。この時のチームは「ドーハの悲劇」以前に最もワールドカップに近づいたチームであったとサンケイスポーツなどは報じている。 わずか1点という最少得点差での敗戦ではあったが、またも力の差を見せつけられた。森は「韓国と日本の差はプロで有るか無いかに尽きる」「韓国に追いつくには日本にもプロを作るしかない」と明言した。各ポジションにスペシャリストがいて完成度の高かったこのチーム の敗戦によって、森を始め日本サッカー界全体がプロ化の必要性を痛感したものの、長沼健に迫った森のプロコーチとしての契約要求は受け入れられず(森自身も三菱重工からの出向の身だった)、1986年辞任した。協会の微温的体質に一石を投じたこの行動が、後のJリーグ創設という大河の一滴になった。また森が取り組んだ改革に今日の日本代表チームの原点があるともいわれる。日本代表監督のプロ契約が始まったのは、森退任から3年後、1988年1月に就任した横山謙三から(年間300万円)。横山のプロ契約(実際はセミプロ契約)を協会に要請したのは三菱重工の人事部課長に戻っていた森という。この時からようやくプロの指導者が代表チームを指揮するという慣例ができた。 森ファミリーのメンバーは現在、協会幹部、指導者として活躍している者が多いが、とても仲が良く今も年に1度集まるという。
※この「日本代表監督」の解説は、「森孝慈」の解説の一部です。
「日本代表監督」を含む「森孝慈」の記事については、「森孝慈」の概要を参照ください。
日本代表監督(1997年-1998年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:40 UTC 版)
「岡田武史」の記事における「日本代表監督(1997年-1998年)」の解説
1995年にはサッカー日本代表コーチに抜擢される。1994年に加茂周が日本代表チーム監督に就任した際、加茂は前任のファルカンのチーム計画を一旦白紙に戻し、前々任であるハンス・オフトが行ったチーム作りを継承すべく人材を集めていた。オフトの下でコーチをしていた経験のある清雲栄純にもコーチの話があったが清雲は断り、その代わりに岡田を推薦。しかし加茂と岡田はほぼ面識がなく、また岡田は指導者としての経験が浅いので、やりがいを感じていたジェフでのコーチ業を優先すべくこの話を当初固辞していたが、清雲に熱心に薦められて代表のコーチに就任した。 岡田の一大転機は1997年10月、フランスW杯最終予選にて代表チームがアジア予選で敗退濃厚の窮地に陥り、加茂監督が更迭された事から始まる。岡田は「その時点でのチームを把握していること」が重視された結果として、まず代理監督として指名され1997年10月、対ウズベキスタン戦で指揮。終了直前に1ゴールを決めてドロー発進するも岡田は内心ある程度の確信を持つ。加茂更迭直後、急場でコーチからの監督起用でウズベキスタン戦のみの就任であり岡田もこれを了承したものだったが、日本に帰国後、加茂に挨拶をして話し合い、「現状に鑑みて、他の者に監督を任せるのはリスクが高い」と判断して監督続行を申し出る。コーチの枠は空席のまま代替として小野剛強化委員がチームに帯同。 最初の1試合を乗り切った岡田は監督へと昇格を果たしたものの、当初は「急場凌ぎ」との見方が大勢を占めていた。しかし加茂によって代表から外されていた中山雅史らをチームに再招集するなどのテコ入れも功を奏し、日本代表は息を吹き返す。最終的にイラン代表との第3代表決定戦の末、予選を突破し土壇場から日本代表初の本選出場を果たした(ジョホールバルの歓喜)。この歴史的な結果を受け、本選に向けての正式に監督に任命される。 1998年の本選直前にメンバー最年少の市川大祐、そして不振に陥っていた中心選手の三浦知良と北澤豪をメンバーから外した事で当時その是非がマスメディアやサッカーファンや世論の間で議論を呼んだ。本選では「グループリーグ1勝1分1敗の勝点4で決勝トーナメント入りを目指す」と表明したが、3戦全敗、得点も中山雅史による1ゴールのみでグループリーグ敗退。大会終了後のテクニカルレポート(FIFAや各国サッカー協会が独自に作成する大会分析レポートのこと。指導改善に役立てる)作成を最後の仕事とし代表監督を退任した。 監督退任後、半年あまりの期間は衛星放送WOWOWにてイタリア・セリエA中継の解説を担当、取材で当時ユヴェントスを指揮していたマルチェロ・リッピ監督と対談し、サッカー観、戦術面での影響を受ける。また後に横浜F・マリノスにてJ1優勝を果たした際にリッピから祝電が届くなど交流を生むきっかけとなった。
※この「日本代表監督(1997年-1998年)」の解説は、「岡田武史」の解説の一部です。
「日本代表監督(1997年-1998年)」を含む「岡田武史」の記事については、「岡田武史」の概要を参照ください。
日本代表監督(2008年-2010年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:40 UTC 版)
「岡田武史」の記事における「日本代表監督(2008年-2010年)」の解説
日本サッカー協会の特任理事として活動中、次期日本代表の日本人監督として名も挙がっていた中、2007年11月に日本代表のイビチャ・オシム監督が急性脳梗塞で緊急入院し、2008年2月のW杯予選で指揮を執ることが困難になり、小野剛日本サッカー協会技術委員長(当時)から後継監督として打診を受ける。その際、小野は、元浦和監督のホルガー・オジェックらがオシムの後任日本代表監督候補に上がる中、岡田に打診した理由として、(1) オシムが築いてきた土台の上に新しい色、個性を積み上げられる、(2) 強烈なリーダーシップ、求心力を持っている、(3) 翌年2月6日の予選まで与えられた時間が少ないためにコミュニケーション能力がある監督としての3点を挙げている。 2007年12月7日、日本代表監督再就任が当時日本サッカー協会会長だった川淵三郎によって正式に発表され、2008年から指揮を執るようになった。なお、ワールドカップで通算成績が0勝3敗の監督が再度同じ国の代表監督をするのは史上初であった。前回の在任時はコーチ陣と同じジャージ姿での采配が話題となったが、再就任後は2008年7月に日本サッカー協会会長に就任した犬飼基昭の指示でスーツ姿で指揮を執ることが多くなった(悪天候時はジャージまたはグラウンドコート姿で指揮を執ることもあった)。 2009年6月6日、W杯南アフリカ大会アジア最終予選の第6戦。アウェーでのウズベキスタン戦を1-0で勝利。グループAをオーストラリア代表に次ぐ2位で通過し、日本代表を4大会連続4度目の本大会出場に導いた。なお、この試合の終了直前に審判に異議を唱えたとして監督生活初の退席処分を受けた。 国内組で臨んだ2010年東アジアサッカー選手権では4チーム中で3位、その後同年4月7日のキリンチャレンジ杯セルビア代表(監督は代行監督、ワールドカップ地区予選に参加していた選手はベンチメンバー1名のみの、国内選抜チーム)戦では0-3で敗れ、4月26日にサポーターから日本サッカー協会へおよそ1000人による解任の署名が提出された。また、5月24日に行われたキリンチャレンジ杯の韓国代表戦に0-2で敗退した後に、犬飼基昭日本サッカー協会会長に対して「進退伺い」ともとれる発言をしたとされることや、5月30日のイングランド戦にも敗退し、6月4日のコートジボワール代表戦まで4連敗を喫し決定力の低さを解消できないことなどを受けて、国内のサポーターやマスコミからは岡田の監督連投や選手の起用法に批判が集中し、Yahoo! JAPANが行ったインターネット調査ではサポーターからの支持率がわずか16%という低さであった ため、ワールドカップ中の解任すらマスコミ上で取り沙汰された。 岡田は今大会における目標を「ベスト4入り」と表明していたが、親善試合で結果が出せなかったことから、その目標は「非現実的」だとして国内外のマスコミに酷評され続けた ほか、グループリーグの対戦相手発表を受けて、セルジオ越後や釜本邦茂、杉山茂樹などのサッカー評論家が1勝もせぬままのグループステージ敗退を予想するなど、サポーターやマスコミに渦巻く不信感と低評価の中ワールドカップ本戦に臨んだ。 しかし、格上と見られていたカメルーン代表と6月14日に行われた初戦では、前半に入れた1点を守り抜き、1-0で勝利した。なおこの勝利は、ワールドカップの国外開催大会での初勝利であった。その後6月19日に行われたオランダ代表との第2戦は0-1で負けたものの、6月24日に行われたデンマーク代表との第3戦では、前半に2点を入れた後も終始リードを保ったまま3-1で勝利を収め グループリーグを2勝1敗の勝ち点6とし、国外開催大会で初めてのワールドカップ決勝トーナメント進出を果たした。 このサポーターやマスコミの多くが予想していなかった快進撃に、国内外のマスコミはこれまでの批判的な姿勢を一転し、岡田の采配を絶賛する論調ばかりとなっただけでなく、グループステージでみせた日本代表の堅い守りを、イタリア代表の「カテナチオ」をもじって「オカナチオ」と呼ぶ記事すら現れた。大会前の4連敗も、あえて格上と戦ったことが決勝トーナメント進出という結果として現れたと評価を一転させた。さらにインターネット掲示板やツイッター上を中心に、かつて岡田に対する非難や不信感を表明していた者からの「謝罪」の表明が相次ぐ事態となり、「岡ちゃん、ごめんね」という言葉は2010年の新語・流行語大賞にもノミネートされた。 日本サッカー界史上初のベスト8進出をかけたパラグアイ代表との決勝トーナメント1回戦は、90分では決着がつかず0-0のまま延長戦に突入した。しかし延長戦でも決着がつかず、日本代表史上初めてワールドカップでのPK戦に突入したものの結果的に3-5で敗北 した。しかし、日本代表としての様々な記録を残したチームを作り上げた手腕に対し、開幕前との評価とは一転して「名将」、「感謝」と称賛する評価が相次いだ。日本代表監督としての契約が同大会を最後に切れる ことになっていたが、試合後の会見で改めて今大会を最後に退任する意向を表明した。また、一部ネットニュースでは人望の厚さや人脈の豊富さから「将来の日本サッカー協会会長へ」という声も出た。
※この「日本代表監督(2008年-2010年)」の解説は、「岡田武史」の解説の一部です。
「日本代表監督(2008年-2010年)」を含む「岡田武史」の記事については、「岡田武史」の概要を参照ください。
日本代表監督(1989年〜1991年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:04 UTC 版)
「宿澤広朗」の記事における「日本代表監督(1989年〜1991年)」の解説
監督就任まではコーチなどの指導経験は全くなく、本場のラグビーを観戦したリポートを日本ラグビー協会に送ったり、代表の海外遠征試合のテレビ解説をしたりしていた。日本を離れていた分、海外のラグビー戦術などに精通し、しかも頭脳明晰なエリートサラリーマンであったため、就任時は「日本ラグビー界の切り札的存在」と、マスメディアでも話題沸騰だった。 打診された時、本人は「銀行が許してくれない」と固辞していたが、銀行から「どうせやるなら、しっかり」と言われ、快諾したという。当時の住友銀行頭取が、1936年のラグビー日本代表の磯田一郎だった事から、銀行側の特段の配慮が窺える。当時、宿沢は資金為替部に所属していたが、ワールドカップ・イヤーに法人部へ異動となった。この法人部は営業支援を業務の柱とし、ディーリング部門に比べると、時間的な拘束はゆるいものの、ラグビーと銀行の二足のわらじを履いたことは事実であり、宿沢自身は「ノーギャラで良いからディーラーをやりたい」と述べており、銀行マンとしての仕事も両立するという信条を崩していなかった。 第2回ラグビーワールドカップ(1991年)で、監督として日本代表の初勝利を得た(ラグビー日本代表は1987年の第1回大会から2011年の第7回大会までラグビーワールドカップで26試合を戦ったが、その間に上げた唯一の勝利となった)。
※この「日本代表監督(1989年〜1991年)」の解説は、「宿澤広朗」の解説の一部です。
「日本代表監督(1989年〜1991年)」を含む「宿澤広朗」の記事については、「宿澤広朗」の概要を参照ください。
日本代表監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 09:37 UTC 版)
2016年にはミゲル・ロドリゴと入れ替わる形で日本代表監督に就任した。 2021年にはスペイン最優秀海外指導者賞を受賞した。
※この「日本代表監督」の解説は、「ブルーノ・ガルシア」の解説の一部です。
「日本代表監督」を含む「ブルーノ・ガルシア」の記事については、「ブルーノ・ガルシア」の概要を参照ください。
日本代表監督
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 01:57 UTC 版)
1957年(昭和32年)には日本代表監督となり、中国遠征で代表を率いた。ただしこの期間に中国代表などとの国際Aマッチは行なっていないため、代表監督とは見なさないとする意見もある。1958年(昭和33年)に選手としての活動を終えると、1959年(昭和34年)には日本で初めて編成されたユース代表の監督に就任した。マラヤ連邦で開催されたAFCユース選手権1959では杉山隆一らを率いて、3位の成績を収めた。 1960年(昭和35年)には竹腰重丸の後を継ぎ、正式に日本代表監督に就任。コーチのデットマール・クラマーとともに1962 FIFAワールドカップ・予選を戦いつつ、1964年(昭和39年)の東京オリンピックに向けた強化活動としてヨーロッパ遠征などを行った。しかし日本サッカー界は低迷期にあり、在任中の通算成績は8勝5分33敗だった。指導者の若返りを図る日本サッカー協会の方針により、1962年(昭和37年)には長沼健に代表監督の職を譲ることになった。
※この「日本代表監督」の解説は、「高橋英辰」の解説の一部です。
「日本代表監督」を含む「高橋英辰」の記事については、「高橋英辰」の概要を参照ください。
- 日本代表監督のページへのリンク