デービー (Davy, Sir Humphry)
デービーという人は
錫鉱業の中心地、イングランド西部のペンザンスに5人兄弟の長男として生まれる。 16歳のとき父を亡くし、町の外科医兼薬剤師のもとで働きはじめる。 ワットの息子が居候となり、彼の影響で化学に興味を持つようになる。 ラヴォアジェの「元素論」を独学で学び、弱冠20歳でガスと生体に関する研究所の所長となる。 水素ガス、炭酸ガスなどの生理作用を研究し、これが評価されて1801年、王立研究所に招聘され、1802年には化学部門の教授に就任する。
研究機関というよりも科学の普及機関という側面が強い王立研究所にあって、デービーは聴衆を喜ばせる見事な発表技術を発揮した。 その素晴らしさは交戦中の敵国フランスから賞金を送られるほどで、電気化学部門でさまざまな業績をあげ、1820年、ロンドン王立協会の会長に就任する。
デービーの主な経歴
1805年、コプリ・メダルを受賞。 当時の王立研究所は地主や貴族が実権を握っており、彼らの利益になる研究が優先された。 デービーは製皮に用いるタンニンについて研究し、タンニンを多く含有する植物を突き止めた。 これにより、タンニン産業の窮状は打開され、地主の利益と、貧困救済の両面に貢献し、ロンドン王立協会よりコプリ・メダルが授けられた。
1807年、ボルタから電池の発明について連絡を受けたデービーは、すぐさま協会にかけあい2000個のボルタ電池を用意した。 溶融したソーダとカリにボルタ電池から電流を流し、ナトリウムとカリウムの単離に成功している。 また、電池発明から7年、このころには電池の開閉に伴う強い火花の発生が知られていた。 デービーはこの火花放電を実験するために水銀を浸した木炭を用意し、電極と木炭の距離による放電発光実験を成功させる。 デービーはこれをアーク(Electric Arc アーチ状の放電光)と呼び、アークという言葉はここから使われ始める。 実用的なアーク灯が登場するのは1870年頃に実用的な発電機が登場してからになるが、これが元祖電気照明である。 アーク灯はエジソンやスワンの白熱電球が登場するまで照明の花形となる。
1812年、ナイトの称号を授けられ、サー・デービーとなる。科学者でのナイト爵位授与はニュートンに続く二人目であった。 同年、王立研究所における最後の講演を行う。ファラデーが聴いた講演は偶然にも最終講演であった。
1813年、戦時中の敵国フランスにファラデーを秘書兼従者として旅行に出かける。 パリではフランスの著名科学者たちに歓迎されるが、化学でのライバルだったゲーリュサックと競争することになる。 海藻の灰から発見された深い紫色の物質で、熱すると紫色の蒸気に変化する物質がなんであるかの調査であったが、 実はこれがヨウ素であり、この発見によりデービーはフランス科学アカデミーの通信会員に選ばれた。 しかし、フランスの研究に割り込んだ形になったデービーの評判は、あまりよろしくなかった。
ハンフリー・デービー
カーライルとニコルソンによる水の電気分解を他の化合物に展開したのがデービーであった。 電気化学の開拓に大きな貢献をした人物で、ロンドン王立協会の会長にまで昇りつめたが、 デービーの後半生はあまりいい評判を聞かない。研究を離れ富と権力に執着する傾向が強く見られるようになったようだ。
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