1982年の橋
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旧橋が車両の通行が不能になったため、1970年(昭和45年)に久那地区より永久橋への架け替えの請願書が秩父市および秩父市議会議長に提出され、秩父市議会においてこれが採択されたことにより、建設省(現国土交通省)より橋梁整備事業の承認を受け、国庫補助事業として秩父市が事業主体となり、総事業費6億600万円を投じて1977年(昭和52年)10月に着工されることとなった。なお、1978年(昭和53年)から1981年(昭和56年)3月にかけて本橋と同時進行で市内の同じ荒川に和銅大橋が建設され、これは総事業費の三分の二の国庫補助(残り三分の一は市が負担)を受けたとはいえ、永久橋の同時架設は埼玉県内の自治体でも前例がなく、地方自治体などの関係機関の注目を浴びた。新橋の監修管理は秩父市建設部土木課、調査測量は南建設、設計は長大橋設計センター(現、長大)が行ない、新橋の施工会社は上部工の施工は住友建設(現三井住友建設)、下部工は間組および斎藤・大田建設(共同事業体)が担当した。また、取り付け道路の施工は斎藤組および大野建設が担当した。新橋は旧橋の150メートル下流側である現在の位置に、当時としては稀なPCポストテンション方式箱桁橋として架けられ、架設工法としてディビダーク工法が用いられた。新橋は1982年(昭和57年)11月30日に竣工し、同年12月21日に開通した。これが現在の久那橋である。また、橋の架設に並行して左右両岸に総延長220メートルの取り付け道路が整備された。渡り初め式は同年12月21日の10時30分より行なわれ、三組の三代夫婦による渡り初めが行なわれた。開通当時は秩父市と荒川村を結ぶ橋であったが、荒川村は2005年(平成17年)4月1日に秩父市と合併(平成の大合併)したため、両岸とも秩父市となった。
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1982年の橋
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/20 14:42 UTC 版)
冠水橋は洪水等でたびたび通行止めになり、また幅員狭小のため交互通行である他、重量制限が設けられており大型車の通行が不可能なため3.2キロ上流側の御成橋もしくは4.4キロ下流側 の太郎右衛門橋へ迂回しなければならなかった。そのため1967年(昭和42年)に北本市を始め、関係市町である鴻巣市・桶川・東松山・吉見・川島・菖蒲による「荒井橋永久橋架設促進期成同盟」が結成され、国および県に永久橋架け替えの請願活動が行われ、1973年(昭和48年)には総工費20億円を投じて 架け替え計画が具体化し、1976年(昭和51年)に着工され、1979年(昭和54年)に工事が本格化した。工事のペースは財政事情により停滞する時期もあったが工事の末期は急速に進んだ。また、橋の前後に吉見側276メートル、北本側102メートルの取り付け道路の整備も合わせて進められた。そして今までの橋の上流側の位置に永久橋が1982年(昭和57年)に鋼連続箱桁橋として竣工し、同年5月1日に開通し、同日午後から一般供用が開始された。これが現在の荒井橋である。開通式は1日10時に右岸側橋詰(吉見町側)にて挙行され、建設省荒川工事事務所所長、県土木部技監や県議会議長、周辺自治体の長や警察署長など約300名が出席した。開通式は先ず開通を祝う神事が行なわれ、次にテープカットやくす玉割りが執り行われた。そして神主を先頭に地元住民による渡り初めが行われた。また、同日11時から北本市コミュニティセンターにて「荒井橋永久橋架設促進期成同盟」による完成祝賀会も同時開催され、橋の開通を祝った。 この橋の開通により大型車の往来も可能になり、橋上での交互通行も解消され交通の利便性が向上した。また荒川を挟んだ東西の地域との交流が盛んになり、沿道地域の発展にも寄与することとなった。
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