駐日大使時代
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「ダグラス・マッカーサー2世」の記事における「駐日大使時代」の解説
1957年1月、国務省参事官を経て駐日大使に着任する。当時の日米関係は、マッカーサーの着任に前後して米兵が日本人主婦を射殺するジラード事件が起きるなど、在日米軍の駐留によって生じる摩擦や反基地闘争が顕在化していた。日本国民の不満が米極東戦略の拠点である日本の反米化・中立化を引き起こすことを危惧したマッカーサーは、日本をパートナーとして遇することでこれを沈静化しようとし、本国政府に米軍戦力および基地の縮小再編や、不平等性を指摘されていた日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安全保障条約)の改定を進言することになる。今日の研究ではこのような危機意識に基づくマッカーサーの積極的なイニシアティブが、アイゼンハワー政権を安保条約改定に踏み切らせた重要な要因となったことが指摘されている。 1959年4月には砂川事件一審判決(被告無罪)が日米関係に及ぼす影響を危惧し、判決を破棄させるための跳躍上告をするよう日本政府に勧めていたことが判明したが、これも上記のような対日認識の反映であったと理解する見方もある(当時@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}「日本政府は社会党が新たに司法を尊重せよと騒ぎたてていることを必ずしも不快に思っていない。というのは日本政府は 『社会党の司法尊重』 が最高裁の段階になったときブーメラン効果をあげることを期待しているからだ」と国務省宛てに訓電を打ったと伝わる[要出典])。安保闘争が激化した際には、反対運動が東側陣営の指導下・影響下にあるものと分析し、当時の岸信介総理や藤山愛一郎外相、吉田茂前総理など賛成派との接触を密にする一方、反対派との接触や対話を極力避ける路線をとった。このようなタカ派的政治姿勢は後任のエドウィン・ライシャワーの路線とは相違し、のちにライシャワーに暗に批判されることとなる。なお、岸および弟の佐藤栄作とは大使離任後も親密な関係を続け、佐藤のノーベル平和賞受賞が決定した際にはすぐに祝電を打っている。
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駐日大使時代
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クローデルが駐日大使を務めた1921年から1927年の時代は日仏間に相い争う案件は少なかった。東アジアの利権拡大に協力する英米から孤立してゆく日本に同情的で、日本の対中国の、フランスの対インドシナの権益拡大を、認め合おうとする姿勢であった。ワシントン会議で主力軍艦を制限された日本は航空戦力を増強するだろうと、フランスの飛行機の売り込みをはかる国際的商才もあった。 姉カミーユのジャポニスムの感化で日本を好いていた彼は、公務を縫って日本を積極的に見聞した。 東京・京都・大阪・福岡で、学生を相手に講演した。 『春庭花』『納曽利』などの舞楽、文楽、『仮名手本忠臣蔵』『石切梶原』などの歌舞伎、『道成寺』『翁』『角田川』『砧』などの能を観劇した。大徳寺・大覚寺・龍安寺・長谷寺・二条城・三千院・名古屋城などを巡り、狩野派の襖絵を鑑賞した。画家の冨田溪仙・山元春挙・竹内栖鳳、歌舞伎役者の五代目中村福助、長唄の四世杵屋佐吉らと親しくした。 雑誌改造へ2度、新潮へ1度、仏文の記事を日本語訳付きで寄稿した。日本の書店から、仏文の詩集『聖女ジュヌヴィエーヴ』、富田渓仙画の詩画集『四風帖』、その第2版の『雉橋集』、第3版の『百扇帖』、を出版した。舞踊詩劇『女と影』を書き、それは帝国劇場で、七代目松本幸四郎、五代目中村福助らによって上演された。 関東大震災に罹災しながら、救助活動を指揮し、病院と託児所とを仮設した。また彼は、配給の行列に並び自分の順番が来るのをじっと待ち続ける、その整然とした姿の人々を目にした驚きを手記にこう書いている。 被災者たちを収容する巨大な野営地で暮らした数日間・・・、私は不平の声ひとつ耳にしなかった。唐突な動きや人を傷つける感情の爆発で周りの人を煩わせたり迷惑をかけたりしてはならないのだ。同じ小舟に乗り合わせたように人々は皆じっと静かにしているようだった。 1924年(大正13年)3月7日、渋沢栄一と協力して日仏会館を発足させた。1925年、大作「繻子の靴」を書きあげた。1926年、稲畑勝太郎とともに関西日仏学館の設立を推進したが、それが開館した1927年10月22日は、次の任地アメリカへ向かう船上にあった。 アンリ・モンドールによると、1943年11月23日に開かれたある公爵夫人の夜会において、クローデルは日本人について次のように語ったとされる。 Un peuple pour lequel je souhaite qu'il ne soit jamais écrasé, c'est le peuple japonais. Il ne faut pas que disparaisse une antique civilisation si intéressante. Nul peuple ne mérite mieux sa prodigieuse expansion. Ils sont pauvres; mais nobles, quoique si nombreux.私が、決して粉碎されることのないやうにと希ふ一つの民族がある。それは日本民族だ。あれほど興味ある太古からの文明は消滅してはならない。あの驚くべき發展が日本以上に當然である民族はない。日本人は貧乏だが、しかし高貴だ。人口があれだけ多いのに。
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