電化工事のいきさつと第1期区間の電化工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 23:20 UTC 版)
「ロカ線電化」の記事における「電化工事のいきさつと第1期区間の電化工事」の解説
1948年に一部の工業鉄道を除き国有化されたアルゼンチンの鉄道は、首都ブエノスアイレスから放射状に伸びる6つの鉄道網それぞれに同国の著名な将軍の名が冠されており、その都心と郊外の間には6鉄道路線全てに鉄道の愛称そのままの近郊通勤路線が運行されている。 そのうちのミトレ線・サルミエント線・ウルキサ線は国有化前から電化されていたが、ロカ線とサン・マルティン線とメーターゲージのベルグラーノ北線およびベルグラーノ南線は電化されないまま、ディーゼル機関車牽引による客車列車が低頻度で運行されており、ベルグラーノ南線以外では通勤時に終着駅での機関車の付け替え(機回し)を行わずに折り返し時間を早めるために、プッシュプル(ペンテルツーク)方式の列車も運行されたが、慢性的な輸送力不足をきたしていた。 そこで、電化を行い、電車および高性能の電気機関車を使用した高頻度での輸送を実現する計画が立てられ、1961年にアルゼンチン政府と各国の間で行われた提案により計画が開始。その結果、ロカ線は日本、アメリカ合衆国、イギリスおよびフランスの技術で、サン・マルティン線はソビエト連邦(ソ連)の技術で電化されることとなり、それぞれの国家とアルゼンチンの両政府による大型の国家プロジェクトとして立ち上げがなされ、日本政府は日本国有鉄道と大手商社の丸紅、および日本輸出入銀行(輸銀)や東芝、日立製作所や三菱電機を筆頭とする大手の電気機器メーカー各社にJICA、海外鉄道技術協力協会(JARTS)などが加わった形の官民一体のバックアップ体制で臨むこととなり、1969年に日本連合として結成が行われた。このうち、サン・マルティン線は電車ではなく電気機関車と客車の編成で計画されたが、政府の財政難とソ連の崩壊により実現することは無かった。また、ベルグラーノ北・南線は当時乗客数が少なかったため、電化計画は立てられず非電化のまま推移し、電化計画が生まれるのはだいぶ先の事となった。 ロカ線の電化対象区間は、ブエノスアイレス市街地南側のターミナルであるプラサ・コンスティトゥシオン - ラプラタ(州都)間、プラサ・コンスティトゥシオン - テンペルレイ間とテンペルレイ - エセイサ - カニュエラス間およびテンペルレイ - グレウ - ボスケス - キルメス/ビシャ・エリーザ - ラプラタ(グレウ経由)間であった。 1971年、ロカ線の電化工事の計画は対象の4か国の中から1か国のみに依頼することが決定し、対象の4か国は入札を行った。激しい落札競争ののち、アメリカ合衆国は辞退し、フランスは入札期限の延長を希望したが受け入れられずに撤退し、日本とイギリスの一騎打ちとなり、最終的に日本が落札し調印。なお、日本に敗れたイギリスは駐アルゼンチン大使を「この案件(ロカ線電化工事)を落札できなかった」ことを理由に更迭したという。 落札した官民一体の日本連合に加え、アルゼンチン側も同国の鉄道車両、および機械メーカー各社も連合をつくり、日本とアルゼンチン両国による大型で協力なプロジェクトとして動きだしたロカ線の電化工事であるが、アルゼンチンの国家予算の関係上、円滑に進めることができず、同国の軍事政権による「汚い戦争」の最中の1978年に当初予定していた電化区間を2分割し、もっとも優先度の高い区間を第1期区間、それを除いた区間を第2期区間として実施することになり、第2期区間は別途入札を行うとされたことから、日本連合は第1期区間の担当となった。 このような事情により計画の調印から10年、誕生から20年が立とうとしていた1981年の12月、ようやく第1期区間の電化工事が開始され、列車の運行に支障をきたさないように徹夜での作業が行われた。 1985年の11月15日、第1期区間の電化工事が完成し、電車による運行が開始された。電化による所要時間の短縮や列車本数の増加は抜群の効果を示し、電化された区間の乗客は大きく増加したことから、電車の増結を行うこととなり、アルゼンチン国内の企業においてその増結用の車両の製造が開始され、1987年から1989年にかけて導入が行われた。
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