農学部林学科における造園学講義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 00:23 UTC 版)
「造園学」の記事における「農学部林学科における造園学講義」の解説
東京帝国大学の林学科において大正5年(1916年)には「景園学」は科目講義になる。明治36年開園の日比谷公園の設計をはじめ、全国各地の公園計画に携わる本多静六と、その弟子で明治期にドイツに渡り、大正から千葉高等園芸学校に「庭園論」講義を開設する本郷高徳、大正7年に「造園概論」を公刊し、日本で国立公園制定運動の先頭に立った林学博士田村剛らが講義を担当。田村はその後同校建築学科における造園学の講義も担当する。 本多が林学徒への造園学教育に際し念頭においていたのは、林学を会得した学士の就業先の関連分野としてで、林学士が庭園や公園設計、都市美といった方面の進出を意図していた。こうして林学科ではこのほか本多静六門下から永見健一が九州帝国大学に赴任し同校で講義を開始し、関口鍈太郎は京都帝国大学に赴任し林学科に日本最初に「造園学講座」を開設した。 景園学という名称は、熟語として不適当となり、代って新たに採用されたのが、造園学である。ただしこの新語も、個人の住宅庭園のほか、都市の公園、運動場、さらに進んで大規模の自然を対象とする風致計画までを包括する所のランドスケープアーキテクチュア、ランドスケープデザインの学科名としては、当時においてもとかく狭義に解れがちであって適当とはいえなかったが、それにも拘らず、その後全国の大学や専門学校にそのまま採用され普及して名称だけは今日に至った。 本多が担当していた造林学講座内には、田村が造園学教室を居候的に開設したが、本多の退官後、しばらくして造園学教室は独立を果たしその責任の地位に至った。その後科目の名称と内容および講義担当者にも多少の変遷を経たが、しばらくは造園学の名の下にランドスケープ全般が講義されてきた。往時講義された造園学の前半である特論および庭園論・都市公園論等は東京都公園緑地部長であった森脇竜雄が、その後半の国立公園論・風景計画論等は当時の厚生省国立公園部技官池ノ上智などが講師として講義を行い、大学院においては千葉大学園芸学部から教授の小寺駿吉が「造園学特論」を担当し、文部教官だった鈴木忠義と前野淳一郎らが学生の研究指導に協力している。1953年5月から始められた同教室の主催する公園の「造園研究ゼミナール」は、学術研究発表のほか、計画設計工事の報告、文献紹介、スライド映写等多彩な内容をもって毎回十数名の参加をみていた。 教育機関としての林学科に共通する特色の一つに演習林の存在があり、植物分類・生態等の研究旅行をはじめ造林・測量、森林経理、森林土木、砂防工学等の実習のために、在学中のべ3か月に及ぶ演習林の生活を行い、その間自然風景との緊密な接触を体験する。東大林学科の場合、北海道(大雪山国立公園区域)・千葉(清澄山国立公園区域)や秩父(秩父多摩国立公園区域)・富士(富士箱根国立公園区域)・愛知・伊豆(樹芸研究所、富士箱根国立公園拡幅区域)など、地理的条件の多彩な各地域に散在する演習林において、その天然林、人工林、内外樹種林等の各種林相、林型、また様々の土木工学、理水砂防の諸施設が大局見地的研究施設となっている。国有林側の連絡により全国各地の営林局で、夏季実習の斡旋をうけて、その施設利用の便を与えられて風景観を養い、自然相手の実務を体験する機会も与えられる。
※この「農学部林学科における造園学講義」の解説は、「造園学」の解説の一部です。
「農学部林学科における造園学講義」を含む「造園学」の記事については、「造園学」の概要を参照ください。
- 農学部林学科における造園学講義のページへのリンク