論理主義者の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/24 15:46 UTC 版)
ブール以降、次の大きな発展はドイツの数学者ゴットロープ・フレーゲによってなされた。フレーゲの目的は論理主義の計画、つまり算術は論理と全く等しいと示すこと、にあった。論理学に対する厳密で形式的なアプローチにおいてフレーゲは先達の遥か先を行っており、また彼の計算法、いわゆる概念記法は重要である。フレーゲは数の概念が純粋に論理学的な手法で表されることを示そうと試み、その結果(彼が正しければ)計算や計算に還元できる全ての数学の分野は論理学に包含されるようになった。かれはこのことを提案した最初の著述家ではない。彼の先駆的作品『算術の基礎』(15章-17章)において、彼はライプニッツ、ミル、ジェヴォンズの業績を認めており、ジェヴォンズの「代数学は高度に発達した論理学、つまり論理的区別を欠いた数である」という主張を引いている。 フレーゲの処女作『概念記法』は命題論理を厳密に公理化した体系であり、たった二つの論理和(否定と論理包含)、二つの推論規則(モーダスポネンスと代入)、六つの公理のみで構築されている。フレーゲはこの体系の「完全性」に言及しているが、それを証明することはできなかった。しかし、最も顕著な革新は彼による、数学の関数の概念を使った量化子の説明であった。伝統的論理学では「カエサルは人間である」という文を「全ての人間は死すべきものである」と根本的には同じ形式のものだとして扱う。固有名詞を主語とする文はその固有名詞が普遍を表すものとして扱われ、「全てのカエサルは人間である」と解釈される。量化子による表現「全ての人間」は「全ての人間」と論理的・意味論的形式において異なり、普遍命題「全てのAはBである」は二つの「関数」、つまり「-はAである」と「-はBである」の、前者を満足する-は全て後者も満足するような合成命題であるとフレーゲは主張した。現代の記法では、これは以下のように表現される (x) Ax -> Bx 日本語で書き下せば「全ての(任意の)xについて、AxならばBxである」となる。単称命題だけは主語-述語の形式をとり、還元できずに単称である、つまり一般命題に還元できない。対照的に普遍命題と特殊命題は単純な主語-述語の形式を決してとらない。「全ての哺乳類」が「全ての哺乳類は陸生である」という文の論理的主語であれば、文全体を否定するために述部を否定して「全ての哺乳類が陸生『というわけではない』」という文を与えるであろう。しかしこの場合はそうではない。このような通常言語文の関数的な分析は後に哲学と言語学に甚大な影響を与えた。 これはフレーゲの計算においては、ブールの「一次」命題が「二次」命題から異なった形で表せることを意味する。「全ての住民はヨーロッパ系かアジア系のどちらかである」は (x) [ I(x) -> (E(x) v A(x)) ] と表せるのに対して「全ての住民がヨーロッパ系であるか全ての住民がアジア系であるかのどちらかである」は (x) (I(x) -> E(x)) v (x) (I(x) -> A(x)) フレーゲはブールの計算を否定して次のように述べている: 「真の違いは私が[ブールが行ったような]二つの部分への分割[...]と大量の同質な表現の提示を避けたことである。ブールにおいては二つの部分が並んでお互いに働き、結果一方が他方の鏡像ということになるが、まさにそのためにそれに対する何らの有機的な関係の代理を務めない。」 統一的・包括的な論理体系を提供しただけでなく、フレーゲの計算は古典的な多重普遍性問題をも解決した。「全ての女の子が男の子にキスをした」の曖昧さは伝統的論理学では表現困難だが、フレーゲの論理学ならばこれを量化子の射程の違いによって捉えることができる。そのため (x) [ girl(x) -> E(y) (boy(y) & kissed(x,y)) ] は、そこにいる全ての女の子に対応してキスをした相手である男の子(皆がそうする)が存在することを意味する。対して E(x) [ boy(x) & (y) (girl(y) -> kissed(y,x)) ] は、何らかの特定の少年がいて彼に全ての女の子がキスをしたことを意味する。このような道具立てがなければ論理主義の計画はあやふやであったり不可能であっただろう。これを使うことでフレーゲは祖先関係、多対一関係、数学的帰納法の定義を与えた。 この時期はデーデキント、パシュ、ペアノ、ヒルベルト、ツェルメロ、ハンティントン、ヴェブレン、ハイティングらいわゆる数学派の著作刊行と重なっている。彼らの目的は幾何学、算術、解析、集合論のような数学の分野を公理化することであった。 論理主義計画は1901年のバートランド・ラッセルが示したパラドックスにより半致命的な頓挫を経験した。これによりフレーゲの素朴集合論から矛盾が導かれることが証明された。フレーゲの理論は、どんな形式的基準に対しても基準に適するもの全てを含む集合が存在するというものであった。それに対して、自身が自身の要素ではない集合を、それらだけを含む集合は自身の定義と矛盾する(それが自身の要素ではないならば自身の要素でないといけなくなるし、自身の要素であるならば自身の要素であってはいけないことになる)ということをラッセルが証明したのである。今日ではこの矛盾はラッセルのパラドックスとして知られている。このパラドックスを解決する重要な方法の一つはエルンスト・ツェルメロにより提案された。ツェルメロ集合論は最初の公理系集合論である。これが発展して今日標準的なものとなっているツェルメロ-フレンケル集合論(ZF)となった。 1910年-1913年に発表された数学基礎論において記念碑的なラッセルとアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドによる三巻からなる作品『プリンキピア・マテマティカ』では階型理論を構築することでパラドックスを構築しようと試みられている: 要素の集合は互いが互いの要素であるよりもむしろ異なる型に属しており(集合は要素ではない; 要素は集合ではない)、「全ての集合の集合」なる概念について述べることはできない。『プリンキピア』は記号論理学においてよく定義された一連の公理と推論規則からすべての数学的真理を引き出そうという試みであった。
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