補償と裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 21:26 UTC 版)
「箒川鉄橋列車転落事故」の記事における「補償と裁判」の解説
日本鉄道本社では10月16日に重役会議を開き、事故概況の報告を行い、次のような決議を採択した。 一 死亡者の遺族へは金五百円を贈与する事一 負傷者は軽重に依り一人に付金三百円以下を贈与する事 日本鉄道本社の決議については、負傷者の1人田代善吉宛の書面が2通残されている。田代はこの事故で重傷を負い、県立宇都宮病院に40日間入院後に退院していた。1通は社長曾我祐準の名義、もう1通は日本鉄道社員一同の名義である。このとき田代には曾我名義で金70円、社員一同から金35円が贈られた。 この決議によって被害者に対する補償問題については一区切りがついたが、その後裁判が起こされた。最初に裁判を起こしたのは、福島県選出の代議士菅野善右衛門であった。菅野は当時25歳の息子をこの事故によって失っていた。事故の1か月ほど後の11月20日に第14回帝国議会が招集され、衆議院本会議で菅野はこの事故について質問した。その論点は、暴風雨にもかかわらず汽車を運行したことと、鉄橋の構造に不備があって転落防止に関する対策がなされていないということの2点であった。 菅野の質問については、翌年1月18日の本会議で逓信大臣子爵芳川顕正から衆議院議長片岡健吉に宛てて『衆議院議員菅野善右衛門君の鉄道に関する質問に対する答弁書』という形の書面が提出されている。ただし芳川大臣からの書面は読み上げられているが、その書面の基となった『監査委員復命書要領』は読み上げられず、討論も実施されなかった。 答弁書の概略は、1 橋梁は「デック式」で軌道の両側に桁溝はないが馬入川(相模川)、安倍川、浜名湖、矢作川など各所で同じ形式のものが使用されている。 2 運転速度は時速53キロメートルと推定され、列車の停止位置から見て過大であったとは考えられない。 3 事故当日16時20分に宇都宮測候所で観測された風速は毎秒9.4メートルとなっているが、事故現場近くでは野崎駅の遠地信号機が根元から倒壊していることから推参して49メートルをくだらない強風が吹き荒れていたと思われる。 4 結論は「よって猛烈なる風力に起因するものと推定するの外なきものと認む」というものであった。 菅野にとって、この答弁書の内容は到底満足できるものではなかった。菅野は事故の責任追及のため慰謝料請求(3万円)の民事訴訟を2月20日に東京地方裁判所に提起した。この裁判で日本鉄道側は、当日の気象状況は不安定であったが箒川鉄橋上で列車転落事故が起きるような強風が起きることは予見できなかったと主張している。 7月7日、東京地方裁判所は菅野の主張を認めて勝訴の判決を出した。判決は日本鉄道の責任について言及し、「全国的に暴風警報が出されており、こういう時には、駅長も車掌も相談して発車を見合わせ、また列車運行に危険があれば徐行、もしくは停車の措置をとるべきなのに、被告会社の社員はそれをしなかったのは怠慢である」として慰謝料の支払いを命じた。 9月14日、日本鉄道は判決を不服として東京控訴院に控訴の手続きを取った。控訴審の審理は判決までに4年以上の時間がかかり、その間に他の遺族や負傷者本人から多数の慰謝料請求の訴えが起こされ、その人数は計36名に及んだ。これは菅野の起こした裁判の東京地裁判決を見たことによるものであった。 東京控訴院は、1904年(明治37年)12月10日に日本鉄道逆転勝訴の判決を出した。菅野は当然大審院に上告し、1905年(明治38年)5月8日に大審院は「原判決を破棄し本件を宮城控訴院に移す」と判決した。1906年(明治39年)2月28日の宮城控訴院での判決は、「被控訴人(最先原告)の請求は之を棄却し訴訟費用は被控訴人の負担とする」という菅野敗訴という結果であった。日本鉄道では菅野との訴訟の結果をもとに他の訴訟を起こした原告たちを話し合って示談が成立したとされるが、内容の詳細については不明である。
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