経歴・学問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:25 UTC 版)
ウィキニュースに関連記事があります。訃報 梅棹忠夫氏 - 民族学者、国立民族学博物館初代館長 京都市に父・菊次郎、母・ヱイの長男として生まれる。 1936年、京都一中(現:京都府立洛北高等学校・附属中学校)から4年修了(飛び級)で第三高等学校に入学。三高時代から山岳部の活動に熱中して学業を放棄し、2年連続で留年して退学処分を受けるも後輩や同級生からの嘆願運動で復学を認められた。京都帝国大学理学部動物学科在学中には今西錦司を団長、森下正明を副団長とする中国北部『大興安嶺探検隊』(新版・朝日文庫、1992年)などの探検に参加活躍をした。モンゴルでの遊牧民と家畜群の研究を基盤に生物地理学的な歴史観を示した『文明の生態史観』(中公叢書、のち中公文庫、中公クラシックス)は、日本文明の世界史的位置づけにユニークな視点を持ち込み大きな反響を呼び、しばし論争を巻き起こした。この主著は、後の一連の文明学におけるユニークな実績の嚆矢となった。 1957年「第一次主婦論争」に「女と文明」(1988年に中公叢書)を書いて参戦し「妻無用論」を唱えた。 1963年には『情報産業論』を発表する。アルビン・トフラーの「第三の波」よりもかなり先行した時期に情報化社会のグランドフレームを提示した。一方で、梅棹は「情報産業」という言葉の名づけ親でもあった。その後の一連の文明学的ビジョンは『情報の文明学』(中公叢書、のち文庫)にまとめられている。 フィールドワークや京大人文研での経験から1969年に著した『知的生産の技術』(岩波新書)はロングセラーとなり、同書で紹介された情報カードは、「京大式カード」という名で商品化された。「知的生産の技術」研究会が長年運営された(梅棹は顧問格)。 1972年、中央教育審議会の委員に就任。 梅棹は国立民族学博物館の設立に尽力し1974年に開館、初代館長に就任した。1986年3月12日に原因不明の失明をしたが、それ以降の著述は梅棹の口述筆記によるものである。闘病記『夜はまだあけぬか』に詳しく、作家の司馬遼太郎とはモンゴル研究のつながりで長年の友人でもあった。 日本語のローマ字論者(ローマ字化推進論者)で、社団法人日本ローマ字会会長でもある。梅棹も古くから漢字廃止論を唱えており、特に失明後は漢語に多い同音異義語を重大な欠点として主張した。また、梅棹はエスペラント運動家(エスペランティスト)であり、世界エスペラント協会の名誉委員でもあった。 主な著作(1990年初頭まで)は『梅棹忠夫著作集』(全22巻、中央公論社)に収録されている。 イスラムに対しては、人と神がマンツーマンで接することができる宗教として共感を抱いている。 2010年7月3日、大阪府吹田市の自宅で老衰のため死去。90歳没。
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