【第6艦隊(アメリカ軍)】(だいろくかんたい(あめりかぐん))
U.S. sixth Fleet.
アメリカ海軍の艦隊(序数艦隊)の一つで、アメリカ欧州軍の一部として地中海・大西洋の東半分を警備し、そこに必要な戦力を提供することを任務としている。
またNATO部隊としての任務を持つ。
司令官は海軍中将が務め、マウント・ホイットニー(LCC-20)を旗艦に、約40隻の艦船、175機の航空機、約21,000人の人員が配置されている。
第6艦隊
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第6艦隊または第六艦隊
- 第6艦隊 (アメリカ軍) — アメリカ海軍の部隊
- 第六艦隊 (日本海軍) — 日本海軍の部隊
第6艦隊
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「ザ・サリヴァンズ (駆逐艦)」の記事における「第6艦隊」の解説
ザ・サリヴァンズは夏の間母港周辺で活動した後、年内の残りの期間を第6艦隊で地中海に展開して過ごした。1954年2月3日にニューポートへ帰還した後、1955年5月まで東海岸やカリブ海で、さらに同年5月から8月までヨーロッパと地中海で活動する。 以降数年間、ザ・サリヴァンズは東海岸と地中海で活動を続けた。1958年夏にはレバノン紛争(英語版)発生に伴いレバノンへ派遣され、介入のためにベイルートへ上陸するアメリカ海兵隊を支援した。内乱が鎮圧された後、ザ・サリヴァンズは本国に帰還して3ヶ月間の入渠を実施してからキューバのグアンタナモ湾で訓練を行った。 1959年3月、ザ・サリヴァンズは対潜空母レイク・シャンプレイン(USS Lake Champlain, CVS-39)らとハンターキラーグループを構成し、対潜戦訓練を通じた海軍兵学校生徒の訓練航海を行う。その後は地中海へ展開して秋に母港へ帰還するまで活動した。 1960年には母港周辺でしばらく活動した後、フロリダ州キーウェスト沖でアスロック対潜ミサイルの評価試験に参加。この期間中にザ・サリヴァンズはケープ・カナベラル沖合で墜落したKC-97空中給油機の生存者5名の救助活動に参加している。 9月に北大西洋条約機構の演習に参加した後、ザ・サリヴァンズはポルトガルのリスボンを訪問し、速やかに地中海、スエズ運河、紅海を抜けて東パキスタンのカラチに到着した。ザ・サリヴァンズはパキスタン海軍、イラン海軍、イギリス海軍の艦艇とともに10月後半から11月初めにかけて中央条約機構合同演習「ミッドリンクIII」(Midlink III)に参加した。地中海に戻った後、ザ・サリヴァンズは第6艦隊及びフランス海軍と演習を実施し、クリスマスに母港へ帰還した。 1961年1月、ザ・サリヴァンズはニューハンプシャー州ポーツマス沖で原子力潜水艦エイブラハム・リンカーン(USS Abraham Lincoln, SSBN-602)の洋上公試を支援し、その後は南へ向かい「スプリングボード作戦」(Operation Springboard)に参加した。カリブ海ではマルティニークを訪問、3月初めに短期間ニューポートへ戻るが、ザ・サリヴァンズはすぐに西インド諸島へ取って返しプエルトリコのビエケス島で海兵隊の上陸演習に参加した。 1961年4月、ザ・サリヴァンズはフロリダ沖でマーキュリー計画に備えた激しい訓練を行う。ザ・サリヴァンズはフロリダ州メイポート海軍補給基地でレイク・シャンプレインと合流し、所定の海域へ向かった。5月5日、アメリカ人初の宇宙飛行を行ったアラン・シェパード中佐が乗るマーキュリー3号(フリーダム7)が頭上を飛び越えてレイク・シャンプレインの近くに着水し、速やかにヘリコプターで空母の艦上に回収された。任務を終えたザ・サリヴァンズは6月に海軍兵学校生徒の訓練航海を行い、ニューヨークとカナダのノバスコシア州ハリファックスを訪問した。 1961年9月から1962年2月にかけてザ・サリヴァンズはボストン海軍工廠で本格的な整備を実施し、それからすぐに練習艦任務に就くためにグアンタナモ湾へ向かった。そこでザ・サリヴァンズは、士官の卵たちに駆逐艦での任務の基礎を学ぶ教材としての役割を果たした。5月と8月にはカリブ海で駆逐艦学校(Destroyer School)の訓練航海を行った。 1962年10月、キューバ危機の発生に伴い、ザ・サリヴァンズはアメリカ海軍によるキューバの海上封鎖に参加する。最終的にソ連との外交交渉によって緊張状態は緩和されたため、ザ・サリヴァンズはニューポートへ帰還した。 1963年1月7日、ザ・サリヴァンズはニューポートからカリブ海への訓練航海の途上にあった。ニューポートへ帰港後は、駆逐艦学校の近海での任務に従事した。4月10日にボストン沖で原子力潜水艦スレッシャー(USS Thresher, SSN-593)の沈没事故が発生したため、ザ・サリヴァンズは緊急の事故調査活動に加わることになった。 以降は1964年の最初の数か月まで、ザ・サリヴァンズは海軍兵学校生徒の訓練を続けた。4月1日、ザ・サリヴァンズはアメリカ海軍予備員(英語版)の訓練部隊に移され、母港もニューヨークに変更された。4月13日にニューポートを出港しニューヨークで予備役兵を乗せたザ・サリヴァンズは、主に対潜訓練を行いながら北はハリファックス、セントジョン、シャーロットタウンといったカナダの街から南はフロリダ州パームビーチに至るまで各地を巡航した。 1964年2月10日、オーストラリア海軍の空母メルボルン(HMAS Melbourne, R21)が訓練中に駆逐艦ヴォイジャー(英語版)(HMAS Voyager, D04)と衝突しヴォイジャーが沈没する事故(メルボルン・ヴォイジャー衝突事故(英語版))が発生したため、アメリカ政府によりヴォイジャーの当面の代替としてザ・サリヴァンズとトワイニング(英語版)(USS Twining, DD-540)を提供する提案がなされた。結局、オーストラリア海軍はイギリス海軍からヴォイジャーと同型のデアリング級駆逐艦ダッチェス(英語版)(HMS Duchess, D154)を譲渡されたため実現することはなかった。
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