第二段階: ソ連による侵攻
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「ポーランド侵攻」の記事における「第二段階: ソ連による侵攻」の解説
詳細は「ソビエト連邦によるポーランド侵攻」を参照 9月17日の時点ではポーランドの当初に計画された防衛線はすでに崩壊していた。ポーランドの唯一の望みは国土の東南部(いわゆるルーマニア橋頭堡)までうまく後退して体勢を立て直すことであったが、その望みは突然にして断たれることとなった。9月17日、ソ連はソ連・ポーランド不可侵条約を一方的に破棄するとともにソ連赤軍が80万人もの兵力を擁してベラルーシとウクライナから二手に分かれ、まだ戦闘地域ではなかったポーランド東部国境地帯 (Kresy) に侵攻してきたのである。この行為は、ポーランド・ソビエト戦争の講和条約として1921年に締結されたリガ条約、1919年の国際連盟憲章(ソ連は1934年に国際連盟に加盟)、1928年のケロッグ=ブリアン条約(パリ不戦条約)、1933年にロンドンで締結された侵略の定義に関する条約などの国際法に違反するが、駐ソビエト ポーランド大使に渡された通牒には「ポーランド国はすでに現存せるものと認めない。ゆえにソビエトはポーランドとの間の諸条約は解消したものと認める」との一文が付け加えられていた。 ソ連は、「国家崩壊が差し迫ったポーランドにおけるウクライナ系住民とベラルーシ系住民の保護」を大義名分としたが、実際のところはモロトフ・リッベントロップ協定の「秘密議定書」に詳記された、ドイツとソ連とでヨーロッパを二分するという示し合わせに基づいた共同侵略行為であった。 およそ25大隊からなるポーランド国境防衛隊は東部国境防衛の任務についていたが、それでもソ連の大規模な侵入は防ぐことはできず、ルィツ=シミグウィ元帥は国境防衛隊に対し、ソ連軍とは直に交戦することを避けて退却せよと命令した。それでも多少の小ぜり合いや戦闘は避けることができなかった。グロドノの戦いでは兵士だけでなく地元の市民までもが防衛戦に参加した。ソ連軍はポーランド軍司令官の一人ユゼフ・オルシナ=ヴィルチニスキ将軍を含むポーランド人捕虜や、民間人の多数を殺害した。ウクライナ人もポーランド人に対する暴動を起こした。また共産主義ゲリラが各地の反乱を組織し、たとえばスキデルという街ではこの手のゲリラによってポーランド人に対する強盗や殺人が行われた。 ソ連軍による侵攻は、ポーランド政府に自国の敗戦を覚悟させる決定的な要素となった。東方からのソ連軍侵攻に先立って、ポーランド軍は自らの西側同盟諸国が西からドイツへ攻撃するのを待つ間、東南部地域のルーマニア国境付近における長期防衛戦を敢行しようとしていた。ナチス・ドイツとソビエト連邦という2つの強敵に直面したポーランド政府は、ポーランド領土の防衛はもはや不可能であると判断した。しかし、ポーランド政府はドイツへの降伏やドイツとの交渉を拒否し、全軍に対しポーランドからの脱出とフランスでのポーランド軍再編成を命令した。 その間にも、ポーランド軍の各部隊はルーマニア橋頭堡地方に向けて移動し、ドイツの侵略に対し活発な抵抗を試みていた。9月17日から9月20日にかけて、「クラクフ」軍団と「ルブリン」軍団はドイツ軍によるポーランド侵攻9月作戦における2番目に大きな戦いであるトマシュフ・ルベルスキの戦いにおいて敗北を喫した。ルヴフ市はいかにも奇怪なこの戦争を例示する一連の出来事のなか9月22日に開城した。というのは、1週間前からドイツ軍がこの街を攻撃していたのに、開城はソ連に対して行われたのである。攻囲の最中にドイツ軍が同盟軍であるソ連軍にこの街を譲り渡したのだった。 ワルシャワは、ドイツ軍の激しい攻撃に対し、他から退却してきて再編成された部隊と義勇市民が応戦し続けたが、ついに9月28日に開城した。ワルシャワ北部のモドリン要塞はモドリンの戦いと呼ばれる16日間の激しい戦闘の後、9月29日に降伏した。各地のポーランド守備隊のいくつかはドイツ軍に包囲されても長い間戦い続けた。自由都市ダンツィヒの先にポーランドの飛び領土となっていたヴェステルプラッテの180人の守備隊は、3500人以上という、人員数では約20倍および火器の規模では海上のドイツ戦艦シュレスヴィヒ・ホルシュタイン号の激烈な艦砲射撃をはじめそれ以上が投入されたドイツ軍攻撃部隊を相手に果敢に持ちこたえたが、自軍の弾薬と医薬品が底をついたため9月7日に降伏した。グディニャ市郊外の街オクシヴィエの守備隊は9月19日まで持ちこたえた。ソ連軍は9月28日までにナレフ川、西ブーク川、ヴィスワ川、サン川まで到達した。多くの場合、西から進撃してきたドイツ軍と互いに出会うことになった。ポーランド最北部でバルト海に臨むヘル半島の守備隊は10月2日まで抵抗し続けた。ポーランド陸軍最後の作戦部隊となったフランチシェック・クレーベルク将軍の独立作戦部隊「ポレシェ」はルブリン市郊外の4日間にわたるコツクの戦いののち、10月6日に投降した。これによってポーランド侵攻9月作戦は終了した。 ウィキメディア・コモンズには、1939年のポーランド侵攻達成を祝うドイツとソビエトのパレードに関連するカテゴリがあります。
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