略歴・現状
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2003年3月のナガランド州議会選挙を控えた2002年10月に、国民会議派(INC)の州政府閣僚だったネイフィウ・リオらが離脱して結党した。インド人民党(BJP)の支援を得ての離党とされる。ナガランド人民戦線(NPF)はこの選挙に、ナガランド民主党(英語版)やBJP、ジャナタ・ダル (統一派)、サマター党などと政党連合「ナガランド民主連合」を結成して臨む。ナガランド民主連合はINCを破って州政権を獲得(全60議席中35議席獲得)、州首相にリオが就任した。なお2004年3月にナガランド民主党はNPFに吸収合併された。続く2004年の連邦下院選挙(ナガランド州割当1議席)は、「ナガランド民主連合」とINCの事実上の一騎討ちとなり、前者の候補が得票率73.1%で圧勝した。 2008年州議会選挙では大統領直接統治が敷かれ、中央の統一進歩同盟(INC)政権が露骨に選挙に介入する事態となったが、NPFは60議席中26議席で第1党となり(INCは23議席)、BJPなどとの連立で辛うじて2期目のリオ政権を成立させた。続く2009年連邦下院選挙でもNPFとINCの事実上の一騎討ちとなったが、ここではNPF候補が得票率約70%で再び圧勝した。ちなみにこの同時期に、INCの4人の州議会議員が辞職したことにより補欠選挙が行われ、辞職議員全員がNPFから立候補して再選された。 2013年州議会選挙では、3期目の政権を目指すリオへの信任が問われた。ナガランドでのINCは、上記のようにNPFへの移籍議員が現れたところへ全国的な退潮傾向も加わり、これまで以上の苦境に陥っていた。結果は、NPFが60議席中38議席となり、4議員の受け入れから更に8議席増、単独過半数確保の快勝となった。逆にINCは4議員離党から更に11議席も減らし、8議席にとどまる惨敗であった。これにより、リオは3期目の州首相に就任している。2014年連邦下院選挙に向けては、リオが出馬することになり、後任の州首相にはNPFの元ラージヤ・サバー(連邦上院)議員T.R.ゼリアン(英語版)(T. R. Zeliang)が就いた。同選挙は2009年とほぼ同様の構図、結果、得票率となり、リオがNPFの議席を守った。
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略歴・現状
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1979年から1985年まで続いた反外国人運動を指導したアッサム学生連合と全アッサム人民闘争会議の主な指導者により、1985年に結成された。 アソム人民会議は、1985年と1996年のアッサム州議会選挙に勝利し、それぞれで州政権を担当したことがある。しかし2001年の州議会選挙ではインド人民党と選挙協力を結びながらも、両党間の調整はうまくいかず、国民会議派に敗北を喫した。2006年の州議会選挙では単独で国民会議派に挑み、24議席を得て第2党となる。しかし2011年州議会選挙では14議席を失い、さらに党総裁のチャンドラ・モハン・パトワーリー(英語版)まで落選するという惨敗を喫した。これにより州議会内でも全インド統一民主戦線やボドランド人民戦線の後塵を拝する第4党に転落した。パトワーリーは敗北の責任をとって党総裁を辞任、プラフラ・クマール・マハンタ(英語版)が後任となった。 近年のローク・サバー(連邦下院)選挙でも会議派や人民党の勢いに押されており、1999年選挙ではアッサム州割当14議席のうち1議席も獲得できなかった。2004年総選挙では2議席を獲得して復調の気配を見せる。しかし2009年総選挙ではインド人民党と選挙協力を結んだにもかかわらず、1議席に後退してしまった。それが原因の1つとなり、アソム人民会議は連邦レベルでは国民民主同盟に参加しなかった。 2014年の連邦下院選挙でもアソム人民会議の苦境は改善されず、ついにアッサム州での連邦下院議席を全て喪失してしまった。この敗北の責任をとり、党総裁のマハンタが辞任、2014年7月にアトゥール・ボラ(英語版)が後任となった。
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略歴・現状
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2005年のボド領域自治県評議会選挙の際にボド人民革新戦線(英語版)(BPPF)が結成されたが、まもなく分裂して成立したのがこのBPFである。その後、自治県評議会ではBPFが多数派を占めている。現在の総裁はハグラマ・モヒラリー(英語版)。 2006年州議会選挙では、国民会議派(INC)と選挙協力を結び、初参戦ながら10議席を獲得する健闘を見せた。選挙後、INCとの連立政権に参加している。2009年の連邦下院選挙(アッサム州割当14議席)では、BPF結成前の1998年からコクラジハル(英語版)選挙区の下院議席を守ってきたサンスマ・クングル・バスマタリ(英語版)を擁し、BPPF側が無所属候補として立てたラージヤ・サバー(連邦上院)議員経験者のウルカウ・グラ・ブラフマ(Urkhau Gwra Brahma)を破って1議席を獲得した。2011年州議会選挙でも引き続きINCと連携しており、議席数を2つ増やして12とし、州議会内第3党の地位を獲得した。これにより引き続き連立与党を務めている。 しかし2014年連邦下院選挙の直前になると、BPFで内紛が発生する。その結果、現職議員のバスマタリはBPFから追放され、コクラジハル選挙区ではチャンダン・ブラフマ(Chandan Brahma)がBPF公認候補として連邦下院選挙に出馬した。しかし同選挙区では、BPFのC・ブラフマとBPPFが再び擁立した無所属候補U・G・ブラフマとが相討ちする形となり、その間隙を衝いたアッサム統一解放戦線(英語版)(ULFA)出身の無所属候補ヒーラ・サラニヤ(英語版)(Heera Saraniya)が圧勝した。この結果、BPFは連邦下院議席を喪失している。
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略歴・現状
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「全インド統一民主戦線」の記事における「略歴・現状」の解説
香料の原料輸出で巨額の富を持ち、「アッサムで一番裕福な候補者」とされたバドルディン・アジマル(英語版)が2006年州議会選挙の前に結成した政党である。当初の政党名は「アッサム統一民主戦線」(Assam United Democratic Front)であった。同選挙では初参戦ながら124議席中10議席を獲得する上々の滑り出しを見せ、2009年の連邦下院選挙では、アジマルがドゥブリ(Dhubri)選挙区で勝利、アッサム州割当14議席の中の1議席を獲得した。この善戦は、国民会議派(INC)の州首相タルン・ゴゴイ(英語版)にも警戒感を抱かせた。 その後、党名を現在の「全インド統一民主戦線」に改め、組織整備を進めるなどして更なる飛躍を期すことになる。そして2011年州議会選挙では、AIUDFは議席数を18まで伸ばし、州議会内第2党の地位を獲得した。一時はINCとの選挙協力や連立などがささやかれたが、INCはこれを否定し、そのためAIUDFは州議会で最大野党の位置につけることになった。 2014年の連邦下院選挙でもAIUDFはアッサム州の各選挙区に候補者を擁立した。この選挙はインド人民党(BJP)優勢の状況下にあり、事前の予想ではAIUDF苦戦(アジマルのみ再選)と見られていた。しかしAIUDFは、アジマルが再選されたのみならず、2選挙区でも勝利を収め、計3議席へと躍進を果たした。但し、2019年の連邦下院選挙では、1議席に減らしている。
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略歴・現状
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「ジャールカンド解放戦線」の記事における「略歴・現状」の解説
ビハール州からの分離を求める「ジャールカンド運動」の中から、1972年に創設された。当初は、左翼指導者A.K.ロイの支持を受け、クルミ・カーストの指導者B.B.マハトを党首、サンタル族の指導者シブ・ソレン(英語版)を幹事長としていた。ところが次第にソレンが党内主導権を握るようになると、左翼勢力とは距離を置き、インド国民会議派(INC)と選挙協力を構築するようになる。そのため現在でも、JMMは連邦レベルではINC主導の統一進歩同盟に加わっている。その一方で党内抗争も繰り返され、一部指導者が離脱していった。 2000年、ビハール州からのジャールカンド州の分離が実現した。同年の州議会選挙でJMMは12議席を獲得し、インド人民党(BJP)に次ぐ第2党となった。2004年の連邦下院選挙では、州割当14議席の内5議席を獲得している。2005年の州議会選挙でも17議席でやはり第2党となり、いずれの政党も過半数を制し得なかった情勢もあって、ソレンが一時的に州首相となった。ところが不安定な政治情勢の中で、ソレンは短期間で辞任に追い込まれ、2008年に州首相に返り咲くも、これも同様に短い任期に終わっている。その結果、ジャールカンド州は大統領直轄統治下に置かれてしまった。 2009年の連邦下院選挙では2議席に留まり、前回選挙の5議席から後退した。同年の州議会選挙では82議席中18議席を獲得、インド人民党(BJP)と同数の議席となった。多数派工作の結果、シブ・ソレンは3度目の州首相に就任したが、やはり不安定な情勢は変化せずに間もなく辞任、その後も大統領直轄統治が繰り返された。ただ、2013年7月からシブの息子であるヘマント・ソレン(英語版)が州首相に就任し、現在も州政権を維持している。2014年連邦下院選挙ではBJPの躍進に直面したものの、前回と同数の2議席を辛うじて確保した。2019年連邦下院選挙では、1議席である。
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