生き残った人々の証言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)
原暉之の疑念に関して、パルチザンと生き残ったニコラエフスクの人々の宣誓証言を引用する。 p. Ya.ウォロビエフ(パルチザン)「トリャピーツィンの裁判には、私は副議長として参加したが、次の事実が確かめられた。トリャピーツィンへの奉仕活動の中で、委員となるためには、少なくとも18人の人間を殺さなければならなかった。(中略)裁判で、トリャピーツィンが何故、そして何の罪で日本人居留民は殺されたのか、と尋ねられた時、彼は、『あなた達はもっとよく知るべきだ。あなた達が殺人を行ったのだ』と、答えた。そして私の、『しかし、あなたはその結果に対する命令を発しなかったか?』という質問に対して、『いいえ』と、答えた。しかしその間に、例外なく全ての日本人居留民を殺すこととの命令の書かれた、ウスチ・アムグン連隊司令官へ宛てに出された、トリャピーツィンとニーナの署名のある文書が存在した」 S.D.ストロッド(学生)「日本軍の攻撃の間に、女子供も慈悲のかけらもなく殺された。近所の人が、日本人女性2人と、子供2人がアムール河の方へ連れて行かれるのを見た、と言っていた。(中略)3月16日に、アムール河岸に放置されている死体の中に、兄がいないかと、探しに行った。死体の数は大変な数であった。最初の山には30体が積み上げられており、その多くは日本人の男女であった。1体だけロシア人の死体が混じっていた」 Ya.G.ドビソフ「私は後に、『お前が日本軍に隠れ家を提供したから、やつらはそこから発砲してきた』という口実で、多くのロシア人が、パルチザンによって殺されたことを知った。また彼らは、平和的な日本人居留民の家に押入り、金目の物を要求した後、彼らを殺した。日本人居留民は、攻撃に参加していなかったばかりでなく、攻撃があることさえ知らされていなかった。もし、日本軍司令部が居留民に、これから起こることを警告したり、武器を与えたりしていたら、後に起こったようなことは起こらなかったであろう。その場合には、おそらく、パルチザン達は持ちこたえられなかったであろう。監獄と民兵営舎に収容されていた800人を超える囚人が、解放されていたに違いないからである。しかしあいにく、女子供を含めて、日本人居留民はすでに全員殺されていた。私自身、多くの囚人がどこかに連れ去られるのを見た。その後、銃声と打撃音、悲鳴が聞こえてきた」 A.p. アフシャルモフ(学生)「日本人居留民は、日本軍による攻撃を、全く誰も知らされていなかった。それどころか、予測すらしていなかった。日本人の歯科医嵩山は、隣の叔父の家に住んでいた。パルチザンが我が家に来て、日本人が住んでいないか尋ねた。誰もいないと答えた。すると、隣の叔父の家へ行った。そして、ことは起った。叔父の家から銃声が聞こえた。パルチザン達は、叔父家族に外に出るように命令し、手榴弾を投げ込んだ。手榴弾3発が爆発した後、彼らは家の回りに干し草を置き、それに灯油をかけて、家に火をつけた。私は、この様子をずっと、窓越しに見ていた。家に火が放たれると、歯科医とその妻の側に、逃げ込んでいた3人の負傷兵がいたことがわかった。その3人の日本人は、炎の中を飛び出して来て、射殺された。歯科医は、爆発で吹き飛ばされて首がなかった。彼の妻は、焼死した。リューリ家の門のところで、日本人乳母の死体を見かけた。中国人パルチザンは、日本軍兵士の死体をあざけりながら、銃の台尻で、頭蓋骨を砕いていた」 E.I.ワシレフスキイ「日本領事とその家族は殺され、領事館は焼け落ちた。この攻撃に関与したしないに関わらず、女子供を含め、全ての日本人居留民が虐殺された。人々は、ベッドからたたき起こされて殺された。日本人の時計修理工も、自宅のすぐ近くで、同じように殺された。日本人居留民の行動をみていると、我々ロシア人と同様に、まさに寝耳に水、という様子であった。この未明の攻撃に関して、彼らは何も知らされていなかった、としか思えなかった」 S.I.パルナシェフ「日本人居留民の中に、この攻撃に関して、未決定の段階での情報を与えられたものは、いく人かはいたかもしれないが、大多数の日本人は、全く知らされていなかった。多くの人達が、その時までに義勇隊から動員が解除されていた。日本人居留民は、女性や子供を含めて、寝ていたベッドから掴み出されて、あるいはその場で、あるいは通りに連れ出されて、殺された。監獄に連れて行かれ、殺された者も大勢いた」 N.K.ズエフ(学生)「日本軍の攻撃中の3月12日か13日か(おそらく12日)朝10時に、パルチザンがラマキンの家に入って行った。そこには、6人の日本人が住んでいた。彼らは軍人ではなく、ただの職人であったが、全員が剣で斬り殺された。午後4時頃に、彼らの内、2人の男女が意識を取り戻した。指を切り落とされ、血まみれのまま何とか我々のフェンスにたどり着き、助けを求めて我が家に駆け込んできた。数人のパルチザンが、我が家の一階に住んでいた。そして、日本人が内側にたどり着く前に、銃を持って飛び出して行った。日本人は、膝を着いて叫んだ。『殺さないでくれ。何でも話すから』 しかし、この願いは無駄だった。パルチザンは、女を撃ったが、あまりに頭に近づけて回転銃を撃ったため、髪の中に額の部分が陥没した。それから、男を撃った。死体は、裏庭に3日間放置された。夕方、パルチザンの一人の中国人が、日本人のズボンを脱がしていたが、古くて擦り切れているのを見て、投げ捨てた」 G.B.ワチュイシビリ「3月12日の午前2時、日本軍の攻撃が始まった。日本人居留民はこの攻撃には参加しておらず、その計画さえも知らされていなかった。それにもかかわらず、パルチザンは、日本人居留民に突進し、彼らをベッドから引き摺り出し、外に連れ出し、資産を略奪している間に、有無を言わせず殺した。日本人の床屋と時計修理工とその子供は、私の家の通りを挟んだ向かい側に住んでいた。8時頃、彼らは家から追い立てられ、私の家の前を連行されて行った。12歳から14歳の4人の子供が、逃げようとした。中国人パルチザンが、後を追いかけ、4人とも射殺した。私の家から、川口乾物店まではそう遠くはなかった。3月12日の夜、中国人、朝鮮人パルチザンが、川口商店のドアを壊して、店を略奪し、住んでいた4人の事務員を殺した」 I.R.ベルマント「私は、日本人の一般住民が、攻撃に関しては何も知らなかったことを事実として知っている。日本人の女性達が、パルチザンに向けて発砲した、などというのは、全くの事実無根である。パルチザン達から聞いたのだが、朝鮮人と中国人パルチザンは女、子供もかまわず、狂ったように日本人を殺した、もっともロシア人の中にも、50歩100歩の輩もいたが、という。多くのパルチザンが、自分の戦果を自慢し合っていた。しかし、そうすることに憤りを感じているパルチザンが大勢いたことも、事実である」 A.リューリ(エラの祖母)「うちの御者がやって来ました。その男は、孫達の乳母が日本人で、私たちと一緒にいることを知っていました。彼は、私に言いました。『ばば様、お前さまもつらいだろうが、日本人のうばさんに今すぐ出てってもらった方がいい』 そして、彼女の方を向くと、言いました。『さあ、出て行きな』 すがり付くすべもなく、彼女は外に出ました。そして、裏庭から通りへ、突き出されました。彼女はそこで殺されました」 I.I.ミハイリク(会計係)「日本人居留民は、日本軍の攻撃には参画していなかった。これは、知っているパルチザンから聞いたのだが、他にも彼らが逮捕した日本人についても話してくれた。例えば、床屋の森とパン屋の百合野 は、寝ていたベッドから裸のまま連行された。森は、『何故、私たちを殺すのか? 私たちは敵じゃない。ロシア人市民がそうであるように、もう長い間、あなた達と一緒に暮らしているし、一緒に仕事もしている』と言って、何とか助けてくれと懇願した。しかし、何の効果もなく、彼らは殺された。女、子供でさえも殺された。私は、腕に子供を抱えた女性達が、通りを連れて行かれるのを目撃した、彼女たちは、足を取られては、雪の上で転んでいた。そのたびに、早く立て、と銃尾で小突かれていた。彼女たちは、民兵隊の営舎に連行されて行った」
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