現在の邌物
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大入道 【中納屋町】 地元の人々から「おにゅーどーさん」と親しまれている、四日市祭の代表的存在。日本一大きいからくり人形を載せた山車で、首を伸ばした高さは7.6mに及ぶ。文化2年(1805年)制作と伝えられ、からくりの主要部分は疎開で戦災を免れ、昭和26年(1951年)に山車が復興した。 鯨船(明神丸) 【南納屋町】 金箔張りの彫刻と幕で飾られた船山車と張り子の鯨で捕鯨の様子を表す鯨船行事。安永年間(1772〜1781)の記録に見える。戦災により裸船は焼失したが、飾り物一式は疎開で戦災を免れ、昭和22年(1947年)再建された。同組の東袋町と北納屋町にも鯨船は存在したが、戦災で消失。しかし、明治末期〜大正年間に古くなった裸船や飾り物類を南納屋町は楠町(現市内)へ、東袋町は磯津町(現市内)へ、北納屋町は七つ屋町(現市内)へ譲り渡しており、現在もそれぞれの地域で鯨船行事が伝承されている。(磯津町、七つ屋町は休止中。) 富士の巻狩り 【南浜田町】 四日市祭の古い形式をとどめる「人練り」のひとつ。安永年間(1772〜1781)の記録にも見え、江戸時代の画家・司馬江漢の日記の天明8年(1788年)に「富士の巻き狩りを見物す」と記されている。 ハリボテの大猪を煌びやかな衣装をつけた子ども武者(馬上の源頼朝、北条時政、曾我時致ら)が射止める仮装行列。戦災を免れる。 大名行列 【元町一区(旧比丘尼町)】 東海道四日市宿で大名行列に加勢した人たちの技術を受け継ぎ、江戸の昔のままに奉納行事に取り入れた「人練り」。下りの行列をあらわし最後尾は駕籠がつく。戦前の道具類は菰野藩から拝領したものであったが、戦災で焼失し戦後復興。 菅公 【新丁(新町・新々町・新町一区)】 文字書きのからくり人形山車。子どもが額に文字を書き、それを道真公に見せるとほめられ、子どもたちは喜び踊りだす。初代は明治初期に建造されたが、戦災で焼失。昭和27年(1952年)にからくり人形再建。七代目玉屋庄兵衛作。 岩戸山 【本町通り】 天宇受賣命に化けていた狸が正体を現し、腹鼓を打ちながら睾丸が膨れだすというユニークなからくり人形山車。初代は幕末から明治にかけて作られたとされ、大入道と同じ人形師の作という。昭和61年(1986年)再建。天宇受賣命の頭は八代目玉屋庄兵衛作。 甕破り 【四日市商店連合会】 水瓶に落ちた子どもを甕を割って救い出したという司馬温公の故事に因んだはなれからくり人形山車。初代は明治27年(1894年)に建造。平成2年(1990年)再建。からくり人形は八代目玉屋庄兵衛作。 四日市諏訪太鼓 【四日市諏訪太鼓振興会・有志団体/各町の保存会/子ども会など】 四日市の商店会などが取り組む「七夕祭」などのイベントを盛り上げようと、商店街の有志が昭和35年(1960年)に、信州諏訪の小口大八に手ほどきを受けたのが始まり。その後、大四日市まつりや四日市祭にも参加するようになり、旧市街地を中心に広まった。四日市諏訪太鼓の起源とされる、信州諏訪大社の御分霊を四日市に勧請したときに道中で囃した神楽太鼓というのは、全国各地の創作和太鼓チームの由来に見られる創作話の類であり史実では無いが、すでに50年近い歴史を刻み、四日市の郷土芸能として定着し、有志で結成されたものや、企業、地区子ども会などを母体に、延べ構成人員1000名にも及ぶ多くのグループが活動している。 御諏訪神輿 【御諏訪神輿保存会】 諏訪神社近くの商店街有志が、当初大四日市まつりの出し物として昭和57年(1982年)に大小の関西風神輿を製作。江戸神輿の所作を学び「御諏訪神輿」と名付け練る。平成9年(1997年)の四日市祭の奉納行事復活のおりにはその機運を作った。
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