犬鳴村伝説とは? わかりやすく解説

犬鳴村伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 04:21 UTC 版)

怪談都市伝説」の記事における「犬鳴村伝説」の解説

旧犬鳴トンネル近くに「この先 日本国憲法通じません」という看板があり、その先集落立ち入った者は生きて帰れない、というもの。犬鳴村伝説を題材にした映画犬鳴村 HOWLING VILLAGE」が2020年公開予定詳細は「犬鳴峠」を参照

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犬鳴村伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 10:47 UTC 版)

犬鳴峠」の記事における「犬鳴村伝説」の解説

旧犬鳴トンネル近くに、法治及ばない恐ろい集落『犬鳴村』があり、そこに立ち入ったものは生きて戻れない」という都市伝説。 この都市伝説に関して諸説あるが、概ね下の内容である。 トンネル前に「白のセダン迂回してください」という看板立てられている。 日本の行政記録地図から完全に抹消されている。 入り口に「この先日本国憲法(または、大日本帝国憲法)は適用しません」という看板がある。 江戸時代以前より、激し差別受けてきたため、村人外部との交流一切拒み自給自足の生活をしている。近親交配続いているとされる場合もある。 入り口から少し進んだところに広場があり、ボロボロセダン置いてある。またその先にある小屋には、骸が山積みにされている。 旧道犬鳴トンネルには柵があり、乗り越えたところに紐と缶の仕掛け施されていて、引っ掛かる大きな音が鳴り、斧を持った村人駆けつける。「村人異常に足が速い」と続く場合もある。 全てのメーカー携帯電話が「圏外」となり使用不能となる。また近くコンビニエンスストアにある公衆電話警察通じない。 若いカップル面白半分犬鳴村入り惨殺された。 犬鳴江戸時代中期1691年元禄4年)に福岡藩庁が城下地行町に居住していた御譜代足軽移住命じ成立させた村落であり、激し差別受けていた等の事実はない。犬鳴にあった江戸時代中後期にかけての足軽墓地群の改葬時(昭和40年頃)、墓地にあったほとんどの墓石戒名軒号および庵号が刻まれていたという。 1691年元禄4年以前頃までは犬鳴谷呼ばず「火平(ひのひら)」または「大河内」と呼ばれていた。御譜代足軽たちが藩命により移住してから一帯総称犬鳴山および犬鳴谷と呼ぶようになった江戸時代地誌筑前國続風土記筑前國続風土記附録筑前國続風土記拾遺犬鳴含めた吉川庄(旧若宮町の西半分にあたる地域吉川村域)の総社ある日山王宮大宮司職・国井内膳が1729年享保14年)に犬鳴谷の事を書き記した犬鳴山古実』という地誌にも、外部との交流拒み自給自足の生活をしていた事や、江戸時代以前より激し差別受けていた事などは記してはいない。住民代々菩提所犬鳴から数キロメートルほどの所にある浄土宗鎮西派浄久寺宮若市大字乙野)と曹洞宗東禅寺宮若市大字湯原)であるが、両寺の過去帳にも一般檀家として記載してある。浄久寺本堂内には犬鳴檀家祖霊位牌安置してある御霊屋がある。 『養生訓』や『女大学』の編著者および儒学者かつ福岡藩士貝原益軒は甥の好古と共に1696年元禄9年)に犬鳴谷来訪している。編著書の『筑前國続風土記』には犬鳴谷および周辺の山々について詳細な記述載せられているが、犬鳴村という奇妙なについては記載が全く無い。 1784年天明4年)、福岡藩士加藤一純が藩命により鷹取周成青柳種信助言得て編纂した筑前國続風土記附録』にも犬鳴村については記述が無い。 福岡藩士国学者青柳種信1814年文化11年)、藩命により『筑前國続風土記附録』の修稿再吟味方として門人児玉琢と領内各郡を回りその時犬鳴谷および周辺の山々くまなく精査しているが、編著書の『筑前國続風土記拾遺』にも犬鳴村記されていない青柳種信考古学または地理学においても著名な人物である。 福岡藩検地帳明治五年(1872)に政府命令福岡県庁編纂した福岡県地理全誌』に犬鳴谷村詳細な記述載せられている。『福岡県地理全誌』によると犬鳴谷村24小区の内に属し福岡県庁からの道程は5里8丁(約24km)。戸数31戸で内訳士族3戸と平民旧卒族)28戸と記されている。 福岡藩中老加藤司書1854年安政元年)に犬鳴日原鉄山および多々羅鉄山1865年慶応元年)に有事の際の藩主避難場所として犬鳴山別館建造させ、福岡藩要所一つとしていた為、日々多くの人の出入りがあったにも関わらず危険な集落目撃談原因不明死亡者や行不明者が出たという記述も無い事から、そのような集落があったとは考えられない犬鳴日原鉄山まつわる話によると、製鉄従事するたたら職人石見国から招き 福岡藩御譜代足軽である犬鳴谷住民との接触禁じたが、住居や墓を犬鳴谷内に置いた。墓は金山穴蔵口(あなぐらぐち)と言われるところの2か所にあり、この墓の中には1862年文久2年)と翌1863年文久3年)の年号銘や戒名彫ってあるものがあり、子供の墓もある。犬鳴谷住民達には旅人墓(ロジン墓)と呼ばれるその墓に近付くと祟りがあるとして怖れられていたという。 2020年には、都市伝説題材としたホラー映画犬鳴村』が映画監督清水崇により制作公開されたが、犬鳴村伝説をなぞった内容というよりは、旧犬鳴トンネルの持つ心霊スポットとして怪奇現象心霊現象描写した内容となっている。

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