犬鳴村伝説
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旧犬鳴トンネルの近くに「この先 日本国憲法は通じません」という看板があり、その先の集落に立ち入った者は生きて帰れない、というもの。犬鳴村伝説を題材にした映画「犬鳴村 HOWLING VILLAGE」が2020年に公開予定。詳細は「犬鳴峠」を参照
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犬鳴村伝説
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「旧犬鳴トンネル近くに、法治が及ばない恐ろしい集落『犬鳴村』があり、そこに立ち入ったものは生きては戻れない」という都市伝説。 この都市伝説に関しては諸説あるが、概ね以下の内容である。 トンネルの前に「白のセダンは迂回してください」という看板が立てられている。 日本の行政記録や地図から完全に抹消されている。 村の入り口に「この先、日本国憲法(または、大日本帝国憲法)は適用しません」という看板がある。 江戸時代以前より、激しい差別を受けてきたため、村人は外部との交流を一切拒み、自給自足の生活をしている。近親交配が続いているとされる場合もある。 入り口から少し進んだところに広場があり、ボロボロのセダンが置いてある。またその先にある小屋には、骸が山積みにされている。 旧道の犬鳴トンネルには柵があり、乗り越えたところに紐と缶の仕掛けが施されていて、引っ掛かると大きな音が鳴り、斧を持った村人が駆けつける。「村人は異常に足が速い」と続く場合もある。 全てのメーカーの携帯電話が「圏外」となり使用不能となる。また近くのコンビニエンスストアにある公衆電話は警察に通じない。 若いカップルが面白半分で犬鳴村に入り、惨殺された。 犬鳴は江戸時代中期、1691年(元禄4年)に福岡藩庁が城下、地行町に居住していた御譜代組足軽に移住を命じ成立させた村落であり、激しい差別を受けていた等の事実はない。犬鳴にあった江戸時代中後期にかけての足軽墓地群の改葬時(昭和40年頃)、墓地群にあったほとんどの墓石の戒名は軒号および庵号が刻まれていたという。 1691年(元禄4年)以前頃までは犬鳴谷と呼ばず「火平(ひのひら)」または「大河内」と呼ばれていた。御譜代組足軽たちが藩命により移住してから一帯の総称を犬鳴山および犬鳴谷と呼ぶようになった。 江戸時代の地誌、筑前國続風土記、筑前國続風土記附録、筑前國続風土記拾遺、犬鳴を含めた吉川庄(旧若宮町の西半分にあたる地域=吉川村域)の総社である日吉山王宮の大宮司職・国井内膳が1729年(享保14年)に犬鳴谷の事を書き記した『犬鳴山古実』という地誌にも、外部との交流を拒み自給自足の生活をしていた事や、江戸時代以前より激しい差別を受けていた事などは記してはいない。住民の代々の菩提所は犬鳴から数キロメートルほどの所にある浄土宗鎮西派の浄久寺(宮若市大字乙野)と曹洞宗の東禅寺(宮若市大字湯原)であるが、両寺の過去帳にも一般の檀家として記載してある。浄久寺の本堂内には犬鳴檀家の祖霊位牌が安置してある御霊屋がある。 『養生訓』や『女大学』の編著者および儒学者かつ福岡藩士の貝原益軒は甥の好古と共に1696年(元禄9年)に犬鳴谷を来訪している。編著書の『筑前國続風土記』には犬鳴谷および周辺の山々について詳細な記述が載せられているが、犬鳴村という奇妙な村については記載が全く無い。 1784年(天明4年)、福岡藩士の加藤一純が藩命により鷹取周成と青柳種信の助言を得て編纂した『筑前國続風土記附録』にも犬鳴村については記述が無い。 福岡藩士で国学者の青柳種信は1814年(文化11年)、藩命により『筑前國続風土記附録』の修稿再吟味方として門人の児玉琢と領内各郡を回り、その時、犬鳴谷および周辺の山々をくまなく精査しているが、編著書の『筑前國続風土記拾遺』にも犬鳴村は記されていない。青柳種信は考古学または地理学においても著名な人物である。 福岡藩検地帳と明治五年(1872)に政府の命令で福岡県庁が編纂した『福岡県地理全誌』に犬鳴谷村の詳細な記述が載せられている。『福岡県地理全誌』によると犬鳴谷村は24小区3村の内に属し、福岡県庁からの道程は5里8丁(約24km)。戸数は31戸で内訳は士族3戸と平民(旧卒族)28戸と記されている。 福岡藩中老の加藤司書が1854年(安政元年)に犬鳴日原鉄山および多々羅鉄山、1865年(慶応元年)に有事の際の藩主の避難場所として犬鳴山御別館を建造させ、福岡藩の要所の一つとしていた為、日々多くの人の出入りがあったにも関わらず、危険な集落の目撃談や原因不明の死亡者や行方不明者が出たという記述も無い事から、そのような集落があったとは考えられない。 犬鳴日原鉄山にまつわる話によると、製鉄に従事するたたら職人を石見国から招き 福岡藩御譜代組足軽である犬鳴谷の住民との接触を禁じたが、住居や墓を犬鳴谷内に置いた。墓は金山と穴蔵口(あなぐらぐち)と言われるところの2か所にあり、この墓の中には1862年(文久2年)と翌1863年(文久3年)の年号銘や戒名が彫ってあるものがあり、子供の墓もある。犬鳴谷の住民達には旅人墓(ロジン墓)と呼ばれるその墓に近付くと祟りがあるとして怖れられていたという。 2020年には、都市伝説を題材としたホラー映画『犬鳴村』が映画監督の清水崇により制作、公開されたが、犬鳴村伝説をなぞった内容というよりは、旧犬鳴トンネルの持つ心霊スポットとして怪奇現象や心霊現象を描写した内容となっている。
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