犬鳴隧道・旧道
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犬鳴隧道(いぬなきずいどう、通称:旧犬鳴トンネル)は1884年~1885年(明治17~18年)に糟屋郡と鞍手郡連合組合会の決議において工事が着手されたが工事技術の未熟さと莫大な工事費を要したため一時中止となった。しかし1927年(昭和2年)11月糟屋郡および鞍手郡各町村会において決議され、各町村長の署名捺印をもって県当局に犬鳴道路の陳情をした。犬鳴トンネル掘削工事については糟屋・鞍手両郡関係町村民一体となって幾多の努力を重ね、1949年(昭和24年)11月3日府県道福丸箱崎線(福岡県道21号線)が遂に開通した。翌年の8月10日には国鉄バスの博多〜直方の運行が開始された。当時のバスは「いすゞ・BX91型」と「ふそうB12型(定員50~70人)」が使われた。燃料には木炭を使用していたが、燃料事情が改善し、1951年(昭和26年)にはガソリンエンジン、その後にディーゼルエンジンへと交換していった。その後24年を経過した1975年(昭和50年)には変貌著しい社会のニーズに応えるために新犬鳴トンネルが開通し、こちらが実質的な福岡と北九州を結ぶ幹線道路となった。 トンネルの全長を示したプレートは腐食が進み錆付いて解読不能なため、正確な距離は不明である。地図上の長さでは、約150メートルある。トンネル開通後、峠は深山幽谷であるのにも関わらず北九州都市圏および筑豊圏と福岡都市圏を結ぶ最短路であったため、車の通行が非常に多かった。よく旧犬鳴トンネルと称されるが、銘板には「犬鳴隧道」と彫られており、国土地理院の地図でも「犬鳴隧道」の名称で記載されている。しかし宮若市役所や文献では新旧区別のために犬鳴トンネルと称するなど、両方一概とされている面もある。 旧道は新トンネルへ付け替えられた後に閉鎖された旧トンネル経由の廃道と犬鳴ダムの建設により水没した部分の2か所があるが、双方の距離は1km以上離れている。犬鳴峠関連で旧道と称する場合は主にダムとは直接の関連がない旧トンネル経由の廃道を指すが、誤解を避けるためこれらはそれぞれ別の区間として認識することが望ましい。旧道は不法投棄や暴走族の溜まり場となったりするなどの問題が発生したことから、旧道と旧トンネルが共に閉鎖されている。旧トンネルの入り口はコンクリートのブロックで覆われており、そこに向かう旧道も柵で封鎖されている。閉鎖されている道路は道幅が狭く、一部では崖崩れなどで通行が非常に危険である。またトンネル内は素掘りになっており、上部から地下水が滴っているため、崩落の危険性もある。久山側は比較的旧トンネルにアクセスがしやすい状況にあったが、防犯上の理由により県道に面した旧道入り口は柵で封鎖され監視カメラが設置されている。無断立ち入りは警察に通報を行う旨の警告看板が設置されており、許可無く侵入した場合は法律・条例などで処罰の対象となり得る。一方で宮若側旧道は車の通行が規制されているが、犬鳴山の河原之河内(かわらんこうち)登山口から熊ヶ城に続く登山道が敷設されているため、登山者であれば通行は可能となっている。 旧犬鳴トンネル口道路記念碑 府縣道福丸箱崎線開通記念碑(道路記念碑裏面碑文)文明者依交通開宜哉前筑鞍手郡犬鳴之嶮藩政時代通福岡唯一之要路也雖然峻坂三里羊腸老樹鬱葱昼尚暗可比蜀桟道人馬之来往危険至極多劬労犬猿亦以欲趣此峻坂悲鳴之故有此地名焉時恰遇明治之昭代郡民総皆出夫改修此峻坂年次爾来望平坦通路甚切也於此大正十三年以来挙郡一致要請県道編入遂至昭和二年有十箇年計画重要県道許可焉其後工事着々進捗仝八年更至見内務省指定県道請願許可仝十七年得鉄道々営路線隧道開鑿之確矣施工三閲年玆以昭和二十四年十一月三日挙開通式嗚呼快哉郡民百年之大望成就矣是可謂国家之息恵挙郡協力寶也今有志相謀建碑以欲後世徴于以撰文乃勒梗概云爾 銘曰羊腸荊谷虎貌巖顚昔要害固今交通填遂裂地拓忽補天穿百年一夢萬古十全餘慶不尽民衆長伝昭和二十四年己丑歳晩秋 醉石 香月楽平撰 筑水 谷庫造書
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