渡来人/帰化人
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 12:35 UTC 版)
倭国の領域であった日本列島には数次にわたり朝鮮半島からの移住の波があった。その主たる要因は朝鮮半島の戦乱であったと考えられ、大規模な倭国への移住の波は朝鮮半島における戦乱の時期と概ね一致している。この中には、技術や知識の導入のため倭王権の掌握下で保有する技能を持って仕えた人々がその第一波からいたことが考古資料によって裏付けられている。しかし、考古学的な調査結果からは、倭国での朝鮮半島系の移住者の痕跡は圧倒的に伽耶南部に関係するものの割合が高く、百済人の活動を導き出す事ができるものは限られる。4世紀以前における百済系の系譜を持つ可能性がある日本列島の遺構としては大阪府の松岳山古墳で発見された瓶型土器や兵庫県にある日本最古の須恵器窯跡である出合窯跡などがある。5世紀前半では全羅南道系の土器の系譜を持つと見られる須恵器の器形が複数確認されている。同じく5世紀前半から展開する北部九州型横穴式石室は、ソウル周辺の横穴石室と関係すると考えられ、大阪府では百済系の技術工人の長が被葬者であると考えられる高井田山古墳が発見されている。6世紀には日本列島における百済系の痕跡はあまりはっきりしないが、7世紀では飛鳥の酒船石遺跡の亀形石を始めとする花崗岩製の石造物が百済と密接な関わりを持つと考えられる。これらの石造物は造形が百済の益山で発見された石造物と非常に類似しており、また当時の倭国において花崗岩製の石造物は極めて珍しいものであったことから、百済系工人によってこれらの石造物が造られた可能性がある。これに関連するかもしれない記録が『日本書紀』「推古紀」の612年に百済から来た路子工(別名:芝耆摩呂)が須弥山の形や呉橋を作ったとあるものである。また、西日本各地に残る朝鮮式山城は百済滅亡後に日本に亡命してきた百済人の指導で建設されたことが『日本書紀』「天智紀」に見える。上記の通り、考古学的な痕跡は無いわけではないが、6世紀前半までは伽耶系のそれと比較して百済系の痕跡は限定的である。7世紀に入る頃から伽耶系の史料が減少するのに伴い、百済系の史料が相対的に目立つようになり始める。 一方、『日本書紀』には6世紀に百済から倭国へ派遣された知識人や技術者についての記録が多数残る。彼らは古代の日本の学術・文化に大きな影響を残した。まず挙げられるのが『日本書紀』「応神紀」に登場する王仁(和邇吉師)であり、日本に『千字文』と『論語』を伝えたとされる。また、6世紀に軍事支援の代償として派遣されたと見られる五経博士についての記録がある。513年(継体天皇7年)に段楊爾が派遣されたのを始めとし、漢高安茂、馬丁安、王柳貴らの五経博士らが交代で百済から派遣され倭王権に仕えた。また、彼らと共に医、易、暦の諸博士や曇慧などの僧侶、律師、比丘尼、造仏工、造寺工なども倭国へ贈られた。船氏の祖とする王辰爾は百済に出自するという説話が残されている。王仁については『千字文』が実際に編纂されたのは応神朝よりもかなり後の時代であるため、その記録は伝説に過ぎないと見られるが、日本列島における初期の漢字の導入が百済系を中心とした渡来人を経由して行われたことが『日本書紀』に見え、また『日本書紀』や他の古い文献の用字法などからもほぼ確認されている。白村江の戦いの後の百済滅亡後には、多数の百済人が倭国へ亡命した。百済王子豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は倭国の朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、日本の氏族としての百済王氏が形成された。彼らの中のある者はやはり知識人・技術者として倭王権に仕えたが、彼らは一定期間のみで交代する派遣技術者ではなく、その意味で倭国にとって極めて貴重な存在であった。 全体として、百済から倭国への人と技術の流れは文献史料に多数登場するのに対し考古学的な痕跡は薄い。これは竈や土器など生活文化に密着した関係性がはっきりと見られる伽耶系の要素とは好対照をなしている。これらのことから、百済と倭国との関係は、一般の人々の大規模な移住をもたらすような関係ではなく、国家間の、或いは支配階層間で行われる文物や技術面での関係が中心であり、考古資料としては残りづらいものであったと考えられる。
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