渡来以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 03:55 UTC 版)
江戸時代初期、長崎の唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。 当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死したため、やむなく自ら良静・良健・独癡・大眉・独言・良演・惟一・無上・南源・独吼ら二十人ほどの弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗り、承応3年(1654年)7月5日夜に長崎へ来港した。月洲筆「普照国師来朝之図」にこのときの模様が残されている。 隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。 明暦元年(1655年)、崇福寺に移る。同年、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。 隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し[要出典]、万治元年(1658年)には、江戸幕府4代将軍・徳川家綱と会見した。その結果、万治3年(1660年)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。 寛文3年(1663年)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した。
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