李成桂の祖先について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 08:44 UTC 版)
李氏朝鮮王室の根元である全州李氏の始祖は新羅で司空という役職に就いていた李翰と『太宗実録』など李氏朝鮮時代の歴史書には記録されている一方で、李翰の中国渡来説があり、これは全州李氏の記録である『完山実録』には、「李翰は元々は、中国に住んでいたが、海を渡って新羅に渡来した」と記録されており、また『李氏得姓之由來(이씨득성의유래)』には、「李翰は本来は中国の唐朝帝国の末裔であり、李翰の新羅への渡来以降代々全州に住んでいた」と記録されていることを証拠とする。 李翰とその子孫たちは全州の有力者として影響力を持ち、1170年の武臣の乱を契機に開京の中央政界に進出した。しかし全州李氏一族の発展はすぐに躓くことになる。李成桂の六代前の李璘は兄の李義方と共に武臣政権成立の勢いに乗じて中央で活躍したが、1174年に李義方が鄭仲夫により粛清されると、李璘も開京から追放され、故郷の全州に都落ちする身となった。李璘の子の李陽茂も苦難の日々を過ごした。そして彼らは都での権力闘争に敗れると、全州で一揆を起こした疑いまでかけられるようになる。ついに李成桂の四代前、李陽茂の子である李安社は180戸に及ぶ一族郎党を率いて故郷を離れた。 最初彼らは三陟に定住したが、中央からの追手に見つかったため、宜州(現在の元山市)に移り、後にモンゴル(元朝)に投降した。朝鮮王室の記録では「穆祖(李安社)が山城別監(地方の役人)と官衙の妓を巡って激しく対立し、その別監が何かにつけて揚げ足をとり、軍隊を動員して穆祖を害そうとした。それに堪えられなかった穆祖は一族郎党を率いて三陟に避難したが、その別監が人事異動で三陟の按廉使(地方長官)として来ることになったので、再び一族郎党を率いて海路を通じて東北面の宜州に移住した。高麗朝廷は、穆祖を宜州兵馬使に任命し、高原を守って元軍を防ぐようにした。当時、双城の以北は開元路に属し、元朝の山吉大王が双城に駐屯し鉄嶺(現在の高山郡)以北を取ろうとした。山吉が穆祖に何度も人を送り投降するよう促すと、穆祖はやむを得ず1千戸を伴い元朝に投降した。そこは元朝の影響下にあり、国外亡命の様相を呈した」と記している。しかし現在では研究が進んだ結果、これが事実ではないことが明らかとなった。その実態は中央政府の監視や圧力に耐えられなかったか、すすんで中央に反旗を翻した末に敗北して亡命に至ったと考えられている。 斡東(現在の慶興郡)に亡命した李安社は元朝からダルガチの職責を与えられ周辺の女真族の統治を任された。しかし女真族との間に徐々に対立が生じると、李成桂の曾祖父の李行里(翼祖)は一族郎党を率いて南方の登州(現在の安辺郡)に移住して、妻である貞淑王后崔氏(本貫は登州であり、登州で戸長を務めていた崔基烈の娘)とのあいだに李椿を授かり、一族は磨天嶺以南(以北には女真族の集落が散在)の東北面を管轄する大勢力となり一種の独立政権を築いた。
※この「李成桂の祖先について」の解説は、「李成桂」の解説の一部です。
「李成桂の祖先について」を含む「李成桂」の記事については、「李成桂」の概要を参照ください。
- 李成桂の祖先についてのページへのリンク