李承晩ラインと日本船拿捕とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 李承晩ラインと日本船拿捕の意味・解説 

李承晩ラインと日本船拿捕

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:23 UTC 版)

李承晩」の記事における「李承晩ラインと日本船拿捕」の解説

代表的な対日政策1つ1952年一方的な海洋主権宣言いわゆる李承晩ライン設定」がある。戦後1945年9月27日GHQ連合国軍最高司令官総司令部)は、戦後不安定なアジア諸国状況暫定統治都合上から、日本漁船係る操業区域制限した通称マッカーサーライン」)を示したGHQ日本求め促したマッカーサーラインは、1949年1950年見直し進み1951年9月サンフランシスコ講和条約による日本国主権回復経て翌年1952年9月廃止となる。 日本側の暫定的な漁船操業範囲国際的な基準戻される講和条約発効前の1952年1月李承晩大統領令大韓民国隣接海洋主権対す大統領宣言」を公表し自国海洋境界線李承晩ライン」を主張した同時期は、朝鮮戦争概ね事実上休戦となり、鎮海士官学校創立されたときでもある。国連海洋法条約排他的経済水域成立する以前に、マッカーサーライン代わるものとして設定しようとしたもので、豊富な水産資源漁場確保目的として、国際協調無視して李承晩が行った措置であった李ライン越えて操業している日本漁船従来公海とされている領域であっても拿捕され、長期間渡って抑留されたり韓国官憲による暴行銃撃によって判っているだけでも44人の死傷者出している。この政策から日韓基本条約結ばれる13年の間で、韓国側拿捕した日本漁船328隻、漁師3929人が韓国側拘束されるという事態となる。 李承晩失脚時の1960年4月27日にはダグラス・マッカーサー2世駐日アメリカ合衆国大使国務省向けて機密電文3470号を送信したその中で彼は、李承晩政権力ずく日本漁民拘束していることを非難し人質となった漁民たちを「李承晩による残酷で野蛮な行為を受け苦しんだ」と表現し李承晩在任中の8年間日本人李承晩擁護できない占領主義的手法苦しんできた、と報告している。 「李承晩ライン」も参照 また李ライン目的一つには竹島韓国名:獨島)を自国領に取り込むということがあった[要出典]が、それは、サンフランシスコ条約交渉文書であるラスク書簡において竹島日本領と定めたことなど、今迄経緯無視する格好となった李ライン設定韓国実効支配下に置かれることとなった竹島処遇は、現在に至るまで日韓懸案問題になっている。 「竹島問題」も参照 対日関係は領土問題李ライン絡み以外でもしばしば対立起き、こと北送事業北朝鮮帰国運動に関して二度にわたる通商関係中断予定されていた日韓会談を「日本人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権共産主義建設助けようとしている」と非難して中止1959年8月)するなど激しく反発したそればかりか工作部隊を密航させ、北送事業主導していた日本赤十字社施設破壊日本担当者暗殺帰国船が入港する新潟港通じ鉄道網破壊謀った

※この「李承晩ラインと日本船拿捕」の解説は、「李承晩」の解説の一部です。
「李承晩ラインと日本船拿捕」を含む「李承晩」の記事については、「李承晩」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「李承晩ラインと日本船拿捕」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「李承晩ラインと日本船拿捕」の関連用語

1
6% |||||

李承晩ラインと日本船拿捕のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



李承晩ラインと日本船拿捕のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの李承晩 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS