李承晩ラインと日本船拿捕
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代表的な対日政策の1つに1952年の一方的な海洋主権宣言、いわゆる「李承晩ラインの設定」がある。戦後の1945年9月27日、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は、戦後の不安定なアジア諸国の状況と暫定統治の都合上から、日本の漁船に係る操業区域を制限した通称「マッカーサーライン」)を示した。GHQが日本に求め促したマッカーサーラインは、1949年と1950年に見直しが進み、1951年9月のサンフランシスコ講和条約による日本国の主権回復を経て、翌年の1952年9月に廃止となる。 日本側の暫定的な漁船操業範囲が国際的な基準に戻される講和条約の発効前の1952年1月、李承晩は大統領令「大韓民国隣接海洋の主権に対する大統領の宣言」を公表し、自国の海洋境界線「李承晩ライン」を主張した。同時期は、朝鮮戦争が概ね事実上の休戦となり、鎮海に士官学校が創立されたときでもある。国連海洋法条約や排他的経済水域が成立する以前に、マッカーサーラインに代わるものとして設定しようとしたもので、豊富な水産資源の漁場の確保を目的として、国際協調を無視して李承晩が行った措置であった。 李ラインを越えて操業している日本漁船は従来は公海とされている領域であっても拿捕され、長期間に渡って抑留されたり韓国官憲による暴行や銃撃によって判っているだけでも44人の死傷者を出している。この政策から日韓基本条約が結ばれる13年の間で、韓国側が拿捕した日本の漁船は328隻、漁師3929人が韓国側に拘束されるという事態となる。 李承晩失脚時の1960年4月27日にはダグラス・マッカーサー2世駐日アメリカ合衆国大使が国務省に向けて機密電文3470号を送信した。その中で彼は、李承晩政権が力ずくで日本の漁民を拘束していることを非難し、人質となった漁民たちを「李承晩による残酷で野蛮な行為を受け苦しんだ」と表現し、李承晩在任中の8年間日本人は李承晩の擁護できない占領主義的手法で苦しんできた、と報告している。 「李承晩ライン」も参照 また李ラインの目的の一つには竹島(韓国名:獨島)を自国領に取り込むということがあった[要出典]が、それは、サンフランシスコ条約の交渉文書であるラスク書簡において竹島を日本領と定めたことなど、今迄の経緯を無視する格好となった。李ラインの設定で韓国の実効支配下に置かれることとなった竹島の処遇は、現在に至るまで日韓の懸案問題になっている。 「竹島問題」も参照 対日関係は領土問題や李ライン絡み以外でもしばしば対立が起き、こと北送事業(北朝鮮帰国運動)に関しては二度にわたる通商関係の中断や予定されていた日韓会談を「日本は人道主義の名の下に北朝鮮傀儡政権の共産主義建設を助けようとしている」と非難して中止(1959年8月)するなど激しく反発した。そればかりか工作部隊を密航させ、北送事業を主導していた日本赤十字社施設の破壊や日本側担当者の暗殺、帰国船が入港する新潟港に通じる鉄道網の破壊を謀った。
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