渡来後の暮らし
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 00:57 UTC 版)
串木野島平に到着した43人は、島平の薩摩街道沿いに住居を構え、窯を建てて瓷壺や甕壺を製作したり農業をしていた。中には唐船塚と呼ばれる塚の上で故郷を望みながら号泣した者や、望郷の念から小舟で朝鮮へ逃げ去ろうとした者がいたという。 慶長8年(1603年)に周辺の村民からの狼藉に遭い、これを機に串木野を離れ安住の地を求めて、伊集院郷寺脇村の小高い丘にたどり着いたとされる。この話については島津氏の直轄地でありすでに開発が行われていた苗代川の地へ移住させたという説があるとしている。島津義弘はこれを不憫に思い屋敷23か所を与え、先住の苗代家・大田原家・下原家を他村に転居させてそこに住まわせた。その後も130以上の屋敷が与えられたという。 一方、鹿児島城下の高麗町に居住していた被虜人も同様に日本人との言語不通や風俗習慣の違いもあり迫害圧迫を受け、仕事がなく生活に困窮していた。これを見かねた島津光久は肥前系統の陶磁器の製作法を彼らに伝授させた。
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