海水浴場と湘南海岸公園
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:02 UTC 版)
「片瀬 (藤沢市)」の記事における「海水浴場と湘南海岸公園」の解説
安政5年(1858年)から1899年(明治32年)まで、横浜の外国人は、行動範囲を居留地から10里以内に制限されていた。その制限範囲内にあり、風光明媚で宿泊施設が整っていた片瀬や江の島には、明治初期以来多くの外国人が訪れるようになった。ヨーロッパ式の海水浴という風習は、日本では片瀬から始まった。(以下、詳細は片瀬東浜海水浴場参照)片瀬の海水浴場組合結成は、小田原急行鐵鉄道江ノ島線が開通した1949年(昭和24年)の6月のことであった。これは片瀬に海水浴場がなかったということではなく、むしろ鎌倉や大磯よりも古くからあったと考えるべきであろう。片瀬には東浜海岸に並行して州鼻通りに旅館街が形成され、しっかりした脱衣場が備えられていたからである。1891年(明治24年)、学習院が隅田川にあった游泳訓練場を川口村片瀬に移し、1904年(明治37年)には片瀬海岸に学習院の寄宿舎(平屋建て、9棟)が翌年にかけて竣工し、3年後に学習院院長に就任した乃木希典の褌姿の写真も残っている。しかし、1911年(明治44年)、学習院は游泳訓練場を片瀬から沼津御用邸の隣接地に再度移した。片瀬の海水浴場が一般客で混雑し、游泳訓練場に適さなくなったのが理由とされる。 1923年(大正12年)9月1日の大正関東地震は、片瀬付近で1m近い地盤の隆起を伴い、砂浜の面積が拡がった。1928年(昭和3年)には神奈川県の手で湘南海岸一帯に砂防林の植樹がはじまり、翌年神奈川県知事に就任した山県治郎は湘南海岸一帯の国際観光地化を目論み、県営湘南水道、神奈川県道片瀬大磯線(通称「湘南遊歩道路」現国道134号)の敷設などが次々に具体化した。湘南遊歩道路は広い車道の両側の砂防林の中に歩道が設けられ、鵠沼から片瀬西浜には乗馬道もあるという画期的な観光道路であった。現在の江ノ電駐車場のところには乃木将軍の銅像(水谷鉄哉作)も建てられた。しかし、戦前の片瀬海岸の海水浴場はもっぱら東浜に限られ、西浜は別荘族が泳ぐ姿はあっても、地曳き網の漁場として存在した。 1947年(昭和22年)4月1日、鎌倉郡片瀬町は藤沢市へ編入合併された。このことにより、藤沢市は江の島を擁する観光都市に発展し、片瀬西浜と鵠沼を一体化して開発する基盤ができた。1954年(昭和29年)5月21日、神奈川県は「湘南海岸公園都市計画事業」を決定、「特許方式」という民間事業を導入した公立公園建設に着手した。手始めに同年7月1日、日活資本の「江の島水族館」が、日本における近代的私設水族館の第1号として誕生した。(以降の経緯は湘南海岸公園を参照)1956年(昭和31年)、片瀬西浜・鵠沼海水浴場を統合した「江の島海水浴場協同組合」が創立され、警備員は赤十字救急法救急員の資格を取得したライフセーバーとなり監視・救助活動を始めた。彼らは1963年に「湘南ライフガードクラブ」(現在名「西浜サーフライフセービングクラブ」)として組織化、日本初のライフガード組織として先進地のオーストラリアやハワイからノウハウを学び、活動するようになった。1959年(昭和34年)3月5日、藤沢市はビーチリゾートの先進地である米国のマイアミビーチ市と姉妹都市提携し、「東洋のマイアミビーチ」をうたい文句に観光客誘致を図る。 1964年(昭和39年)、江の島が東京オリンピックのヨット競技会場に選ばれたのを機に、自動車橋が島を結び、この前後は片瀬の海水浴場来客数は500万人を遙かに超え、日本一の海水浴場の名をほしいままにしていた。以後、大腸菌騒ぎなどもあってしばらく低迷していたが、2004年(平成16年)には450万人を突破し、日本一の海水浴場に返り咲いた。
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