海外22ヵ国巡業について
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「筒井徳二郎」の記事における「海外22ヵ国巡業について」の解説
筒井徳二郎は世界恐慌下の1930年1月から翌年4月にかけて1年3ヵ月、海外21ヵ国を巡り(筒井自身は22ヵ国といっている)、62ヵ所の劇場で公演したことが確認されている。ロサンゼルスの日米興行社長、安田義哲はニューヨークの檜舞台で、米人相手に興行することが多年の念願で、剣劇界の元老といわれた筒井徳二郎に白羽の矢をたてた。座員のパスポート(1929年12月26日付発行)によれば、最初は米国公演だけが目的だった。ロサンゼルス公演の後、ニューヨーク・ブロードウェイのブース劇場に乗り込む。在米舞踊家の伊藤道郎が米人向けに脚色・演出を担当、演目は歌舞伎の翻案「恋の夜桜」(「鞘当」と「京人形」の合成)、剣劇「影の力」(「国定忠治」外伝)、舞踊「祭り」(獅子物)だった。このニューヨーク公演で有名な興行師の目にとまり、パリ公演が実現する。 パリでは当地画壇の寵児・藤田嗣治や日仏混血の作家・キク・ヤマタらの協力の下、欧州最新最大の劇場ピガール座において公演(演目として「勧進帳」が加わる)、大成功を収める。そのため欧州中から公演の申し込みが殺到することになる。すなわちベルギー、北欧の諸都市、ロンドン、バルセロナ、スイス諸都市の後、ベルリンをはじめとするドイツ諸都市、プラハ、ブダペスト、ウィーン、ハーグ、イタリア諸都市を巡り、さらにバルト沿岸・東欧諸国の都市にまで足を運んだ。筒井以降で、一度にこれだけの規模で海外公演を行った日本の俳優はいない。欧州公演では他に歌舞伎の翻案「光秀」(「絵本太功記」十段目)、舞踊三種「狐忠信」「面踊」「元禄花見踊」、舞踊「春の踊り」、剣劇「武士道」が演じられた。 海外での上演はすべて日本語で行った。筒井をよく知る元歌舞伎俳優の証言 によれば、彼は驚くほど歌舞伎に精通していたようだ。その筒井が、歌舞伎や剣劇を初めて見る(予備知識のない)外国人にも容易に理解できるように大胆に脚色、演出し、身体演技を強調して上演、なおかつ日本演劇のエッセンスが伝わるように工夫した。ドイツの代表的な劇評家ヘルベルト・イェーリングは筒井一座の芝居について「日本語が一言もわからなくても、基本的な状況はつかめるであろう」 といったという。 こうして筒井は公的支援のない昭和初期、しかも大恐慌の最中に、日本演劇を携えて海外22ヵ国巡業を敢行、王侯貴族から一般庶民にいたるまで、何十万もの人々に感銘を与えて、「世界の剣劇王」と称えられた。しかしそればかりではない。フランスのジャック・コポーやシャルル・デュラン、ドイツのエルヴィーン・ピスカートアやベルトルト・ブレヒト、ロシアのフセヴォロド・メイエルホリドなど、西洋の著名な前衛演出家たちが、筒井の芝居から演劇改革のための有益な示唆を受けていた。コポーは「演劇の生命、それは日本の役者が豊かに持っている寡黙な沈黙の中に躍動している動きである」 とまでいって賞賛した。一方、国内では宝塚歌劇(当時は宝塚少女歌劇)の坪内士行が、筒井の海外公演の方法は翻って、伝統文化が薄れていく近代日本においても、新しい国民劇創成のヒントになりえるものだと述べた。したがって筒井の海外公演は、国際親善に貢献したばかりでなく、日欧双方の近代演劇が抱える問題にも光を当てる性質のものだったと考えられる。日本の伝統演劇の本格的な海外進出は、第二次世界大戦後にようやく始まった。そのための地ならしの役目を、つとに知られている川上音二郎一座、花子 (女優)一座とともに、この筒井徳二郎一座が果たしていたといってよいだろう。
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