海外貿易の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 21:37 UTC 版)
「ポルトガル海上帝国」も参照 ポルトガルはサハラ交易のルートを抑えるためにしばしばモロッコに遠征を行ったが成功を収められず、西アフリカの海岸線を経由する別のルートの確立に取り掛かった。1460年代からポルトガル人はセネガルで金の買い付けを開始し、およそ20年後にポルトガル船はギニア湾の黄金海岸に達する。1482年にギニア湾岸に要塞の役割を兼ね備えたサン・ジョルジュ・ダ・ミナ商館が設置され(黄金海岸(英語版))、商館を拠点として金、奴隷、マラゲタ胡椒、象牙の貿易が発展する。これまで陸路で運ばれていた西アフリカの金の一部がサン・ジョルジュ・ダ・ミナに入り、年に500kgの金がポルトガルに流入するようになった。ポルトガルの海外交易はリスボン王宮のインド商務院によって統制され、輸入された商品はフランドル地方に置かれた商館からヨーロッパ各地に出荷された。 ポルトガルは隣国のスペインよりも早くインド航路を発見し、武力によるイスラーム商人が支配的な地位を有するインド洋の交易ネットワークへの参加を試みた。ポルトガルは南アジア原産の香辛料の生産と流通を統制下に置き、ペルシア湾、紅海を経由する既存の海路の遮断のため、インド洋沿岸の軍事・交易上の要所に商館と要塞が建設される。ポルトガルによって既存の香辛料の流通路が絶たれた結果、ヨーロッパ側の流通路の末端に位置するヴェネツィア共和国は損失を被り、フッガー家やヴェルザー家などの大商人はリスボンに拠点を置いた。しかし、ポルトガル海軍は紅海沿岸のアデンを陥落させることができず、インド領ポルトガルは港市での交易を現地の商人に薦めて関税を徴収したために西アジアに向かう隊商に香辛料が供給され、紅海を経由する旧来の交易ルートは依然として健在だった。16世紀半ばからインド方面香料交易の衰退、ヴェネツィア、トルコ、スペイン、マラバルに加えて後発の海外進出国であるイギリス、フランス、オランダといった強力なライバルの出現はポルトガルの商業活動に打撃を与え、1549年にフランドルに置かれたポルトガル商館は閉鎖される。 15世紀に大西洋の島々への植民事業がエンリケ航海王子と騎士修道会によって実施され、植民地で生産された農産物はポルトガル本国に輸送された。ポルトガルの植民地のうち、カスティーリャに譲渡されたカナリア諸島ではブドウの栽培とワインの生産、マデイラ諸島やアゾレス諸島では小麦、サントメ島ではサトウキビの生産が進められ、カーボベルデでは奴隷によって栽培された綿花とインディゴを使った繊維業が発達した。金、銀、香辛料は王室の独占品とされていたが、1550年代以降は王室貿易の一部が大貴族や騎士団に特権として譲渡される。交易の衰退に際した王室は1570年に香料交易の独占を取りやめ、民間との契約制に切り替える。 喜望峰航路を経た王室の香辛料貿易は16世紀半ばから次第に下火となるが、インドやペルシアから入荷した宝石、ダイヤモンドや絹、インドの綿織物、中国の陶磁器などの取扱量は増加し、アジア貿易は17世紀まで高収益を上げていた。ポルトガル人の商業活動は東アジア方面でも展開され、1543年に日本の種子島にポルトガル船が漂着し、1557年にマカオをポルトガルの租借地とした後、ポルトガル人は中国の生糸、金と日本の銀を扱う中継貿易で利益を得た。アジア方面の香辛料貿易の決済には銀が必要とされていたがヨーロッパからの供給量には限度があり、多量の銀を産出するメキシコ、ペルーを領有するスペインはポルトガル人にとって魅力的に映った。銀の需要の高まり、貿易航路の拡大といった経済的理由は、1580年に達成されるイベリア半島統一の一因となる。
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