河川の制御と改修工事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/04 03:40 UTC 版)
当初、ウィーン川に船舶の航行を可能にしようという案もあった。これは二人の若き技術者、アツィンガーとグラーヴェによるもので、1874年に著書の中でプロジェクトとして公表されていた。それによれば、6つの貯水池を作って船舶の通航に十分な流量を維持しようとするもので、深さ1.9m、幅28.4mの「ウィーン船舶運河」(Wien-Schiffahrts-Canal)に作り変え、スクリュー船での航行を見込み、人員(旅客)は乗せずに建築資材の運搬が想定されていたが、その後、このプロジェクトはそれ以上熟したものとはならなかった。 専門家委員会による1882年の現状に関する報告書は次のように報告している。 「ウィーン川が、プルカースドルフ市からウィーン市の手前まで、あらゆる種類の排水がたまる下水溝と化し、ウィーン市に入ってからはもはや川の水とは呼べず、動物性・植物性のゴミ廃棄物が滞留する下肥状態になっている、という苦情が方々から寄せられている現状は、全くもって根拠のあることである。(・・・)とりわけ水質の腐敗と岸壁の汚染の最大の原因となっているのは、発酵工場や染色工場、化学工場やヒュッテルドルフ地区の醸造所などである」。 当時、全長17kmの流域(ウィーン市内の分)に対して設定されたウィーン川制御法規は今日もなお効力を有している。これは1892年にオーストリア帝国議会(ハンガリー王冠領を除いたツィスライタニエンの議会)で制定された「ウィーンの公共交通設備の整備に関する法律」(Gesetz über die Ausführung öffentlicher Verkehrsanlagen in Wien)で、帝王室商業大臣(k.k.Handelsminister)直属の「ウィーン交通設備委員会」(Kommission für Verkehrsanlagen in Wien)の管轄下で施行された。委員会は財源として必要な国債を以後90年間を上限に発行できる権限を有していた。 1500万グルデン(2016年現在の貨幣価値に換算して2億ユーロ)の予算が提示され、国・ニーダーエーステライヒ州・ウィーン市の三者で500万グルデンずつ分担することが決定された。上記の法律に付随する詳細な計画書では、川の流量を最大で毎秒600m³とすることが求められ(計画書の中心に据えられたのはウィーン市営鉄道の新設計画だった)、1894年、委員会からウィーン市建築局へ工事の施工が委託された。 洪水対策として、ウィーンの森にせき止め湖の「ウィーンの森湖」(Wienerwaldsee)が、ウィーン市西部のアウホーフ地区に川の排水制御用の貯水池がそれぞれ設置された。その後、時代が移って河畔の自然再生の動きが出てきた現在では、こうした湖や貯水池は、既にある豊かな湿地生態系として見直されている。 ウィーン川はウィーン市内ではほぼ全面的にコンクリート護岸となっている。これは壊滅的な被害を伴う洪水対策として1895年から1899年の期間に整備されたものである。護岸のコンクリート化と並行してウィーン市営鉄道(シュタットバーン)のウィーンタール線(ウィーン川渓谷線)の建設工事が進められた。この路線はヒュッテルドルフ・ハッキング(13区・14区)間のツッファー橋(Zufferbrücke)(13区・14区)から市立公園脇のJohannesgasse(1区・3区)までのウィーン川右岸(南側)を通り、川とは壁を隔てて区切られ、両岸の地表面よりも低く掘り下げた深さに線路が敷設された。 市営鉄道の建設工事に建築芸術の面から関わったオットー・ワーグナーは、シェーンブルン宮殿(13区)からカールスプラッツ広場(1区・4区)までの区間に蓋をして暗渠化し、蓋の上の空間に豪華通り(ウィーンツァイレ通り)を新設する計画を熱心に提案したが、実際に暗渠化が実現したのはピルグラム橋(Pilgrambrücke)より下流の2.8㎞の区間に留まった。 都市の下水対策として、護岸化された川の両岸には集積排水管、通称「コレラ排水管」が作られたが(ウィーン川右岸集積排水管とウィーン川左岸集積排水管の2本)、川の本体へ漏水が起きており、強雨時には特に酷い状況になっていたため、その対策として、1997-2001年と2003-2006年にウィーン川渓谷排水管(Wiental-Kanal)が増設された。これは全長3.5㎞の配管をウィーン川の河床の地下に通すもので、ピルグラム通り近くのエルンスト・アルノルト公園(5区)でウィーン川右岸集積排水管から分岐し、河口のビル「ウラニア」脇で右岸主要集積排水管・補強排水管(2000年完成)に合流している。この排水管は貯水槽としての機能もあり、最大で11万m³の貯水能力がある。この工事の最大の難所はカールスプラッツ広場で地下鉄U1線と交差する地点で、地下鉄の立坑のわずか3メートル下に排水管が通っている。 護岸化された川に高架を設けて都市高速道路網を整備する構想も、過去にはたびたび議論されてきた。都市高速道路構想は1960年代に活発に議論が取り行われたが、市長フェリックス・スラヴィークの1972年9月2日の基本方針演説により議論に終止符が打たれた。
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